きみが手を洗うあいだは水圧の弱いシャワーに泡をながした

松下誠一「秋から冬にかけての十二首」(「COCOON」38号)

 

「COCOON」38号に目を通しながら、この連作のページでは印字が細く掠れているように見えた。当然それは錯覚なのだけれど、一首一首の筆圧の弱さというか、声の小ささというかはとても印象的でそうした弱さや小ささが逆に連作の読み手を惹きつけるちからになっていることを面白く感じた。

歌のなかの「きみ」と「わたし」はひとつの仕切られた空間にいるのではなく、同じ家の別々の部屋にいる。「きみ」は洗面台のある場所かもしかしたらキッチンかもしれないが、蛇口のある場所にいて手を洗っている。「わたし」のほうはたぶん浴室だろう。先に水流が使われていたのは浴室のシャワーで、体を洗ったあとに泡を流している。それから少しして「きみ」が蛇口をひねって水流を使いはじめる。と、水流の引っ張り合いが起きて、「きみ」のほうへ水の流れはかたむき、シャワーの水圧はがくんと落ちてゆく。ただひとつ水流の引っ張り合いという現象が描かれているだけのように思われるのだけれど、何かこちらを引き込んでゆくものがある。おそらくひとつには「手を洗う」という具体が見せる時間の幅の妙であり、他の行為では表れ得ない固有の時間幅が「手を洗う」にはあるのだと知って軽く目から鱗が落ちた。その時間が固有だからこそ浴室という仕切られた空間で起こっている水圧の弱まりが、別の仕切られた空間で行われている「手を洗う」によるものなのだと把握できるのである。水圧の弱まりのはじめには何かわからなくても、弱まりの終わりによる時間幅の確定が「手を洗う」という答えをはじきだす。

もうひとつ、この歌は一種のコミュニケーションを捉えた歌なのだけれど、「きみ」の蛇口をひねるという積極が水圧の消極となって伝わっていくねじれに人間と人間が行うコミュニケーションの単純ではないかたちが息づいているような気がしてくる。これは人間とAIのやりとりでは実現しないかたちなのではないかということも思ったりして、仕切りの向こうにたしかに「きみ」がいることの生々しさは、読み手のほうへも波及してくる。一首の筆圧の弱さ、声の小ささと先に述べたが、そうした消極が今度はむしろ生々しさを浮き上がらせることの積極へとねじれていくのも面白く、一首の内容のなかでの積極消極の交錯にとどまらず一首の内容と一首の筆致においても積極と消極が交錯しながら複雑な織りをなしている歌である。

 

寝過ごして0時を過ぎた志木駅のホームでとりあえず水を買う

 

 

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