大口玲子『スルスムコルダ』
一首の前には十一月二十一日(木)と日付があり、一首のあとには骨折した母が転院した病院に、月に一度のエモーショナルサポートドッグ(心療介助犬)が来る、とうい内容の小文が付されている。
十一月の終わりに差しかかった時期と言えばもう晩秋であり、しかし晩秋とはいえまだ日中は暖かかったりするから首元に巻くマフラーをまだ準備していない、それくらいのタイミングで急に寒い一日がやってきたのだろう。首筋が寒い。その寒さが首というものを普段以上により意識させ、際立たせる。首の際立ちは「来てゐて」と区切れることなく三句目以降に受け継がれながら母と犬の病院での交わりへ歌の重心が移動してゆく。この歌に立ち止まるのは「今日母が抱きしめた犬を思ふ」のではなく、「今日母が抱きしめた犬の鼓動を思ふ」のだというところだと思う。遠くの存在を思うときにこのシチュエーションであれば他には「今日犬を抱きしめた母を思ふ」という思いの仕方があって、むしろこのパターンがもっとも一般的なのではないかという気がするのだが、歌に選ばれているのは「犬を思う」のではなく、「母を思う」のでもなく、「鼓動を思う」である。これは、今日病院を訪れた犬がどんな感じの犬だったか、大型犬か小型犬か茶色い犬か白い犬かというようなこととは違うし、犬と母とのふれあいを絵のように思っているわけでもない。
「今日母が抱きしめた犬の鼓動を思ふ」によって得られる「わたし」の立ち位置は、つまり入院中の「母」に重なっていく立ち位置である。「思う」が犬の鼓動を、にまで達するとき、その思いは熟している。母と犬がふれあう病院の光景を思う先に思いは進み、母のすぐそばまで思いは達し、さらに母のなかへと思いが入っていく。だから犬を抱きしめた母しか感じることのできない犬の鼓動を思うことができるのだと言える。「犬の鼓動を思ふ」とき「わたし」はほとんど「母」と一致し母の体感をもってその光景を思っているのである。ここで初句「首筋に」がよく効いてくる。犬を抱きしめようとするとき、犬を全身で感じようとするとき、自然に寄せてゆくのが首であり、こういうときに首はもっとも敏感な働きをする。首を寄せて犬の鼓動に出会う、その血の流れ。首筋というのも太い血管、血流を思わせる場所である。「わたし」と「母」と「犬」のとくとくとした血の巡りをこの一首が集わせている。
コロナ禍の息子に買ひしトランポリン息子を思ひ三分跳べり
