𠮷野裕之『砂丘の魚』
このタイミングでこの歌を選んだのは、一年にわたったこの「日々のクオリア」連載の完走が目前まで迫っているから、というのが大きかったように思う。同じ一首であっても、読者の側のコンディションやそのとき置かれた個人的状況によって歌への距離は接近したり遠ざかったりする。これはまあ小説でも詩でも同じなのかもしれないけれど、一首ほどの文字数であればすぐさま読み通し歌への距離が判明して自身のコンディションが照らされる。その一行のかたちはなんだか水銀体温計のようにも見えてくる。
歌に入る。この歌の要は「仰ぐ」「来る」ふたつの現在形である。どちらも現在形だけれど、「現在」のニュアンスはそれぞれ少しだけ違っている。「白鳥を仰ぐ」は取り急ぎこれは純粋な現在だととった。今ちょうど白鳥を仰ぐふたりがいる。そしてそのふたりに「やって来る声」。この歌の場合、「やって来た声」と過去形で表すことによってむしろ発声の現在性が示されるはずで、「やって来る声」にはまだその声がふたりの体に到達寸前すれすれで到達はしていない感じがする。あとちょっと、である。空に白いものを目撃して、それが白鳥だという認識になろうかなるまいか、また、吸った息が呼吸としての息から喜びの声を発するための息に移り変わるか変わらないか、そういう、現象が誕生する直前の、未生のものがふくらんではちきれて顕在化するほんの一歩前の輝きがある。「来る」はだから純粋な現在というよりも少し先の未来を含んでいるように感じるのである。
現在形は現在を示すほかに世の中の真理を示すかたちでもある。太陽は東から昇る、の昇るが現在を示しているのではなく真理を示しているのと同じように「仰ぐ」「来る」にも現在の感じや少し先の未来の感じとあわせて真理の感じがするのだがどうか。この歌を読むとただ一回、一か所だけの出来事が表されていることのうしろに、過去現在未来、東西南北の別なく点在するつぶつぶとした喜びの予兆が表されているのだという気になる。
それから、声は出すものであり発するものでありときとして絞り出すものでもあるわけだが、この歌の声は空中から飛来する。白鳥が視界に入ったときの喜びの声の新鮮さを思えば、その声は体内の湿った暗闇から出すのでも、発するのでも、絞り出すのでもない、冷え緊まった空の澄明から飛来するものだという把握にふかく頷かされるのである。
声をしずかに保つ男のくらがりに夏の木立ちは育ちつつあり
