橋本牧人「水鳥のころ」(「未来」令和8年1月号)
この歌は「シンクを磨いてたらいきなりくしゃみが出た、ということである」という話ではない。もちろん、一面としてそういう話なのだということもできるのだけれど、この歌が、短歌の型が発生させる負荷とがっぷり四つに組んでいることで「シンクを磨いてたらいきなりくしゃみが出た、ということである」とは言いだせなくなる圧が出ている。定型の負荷とダンスをしながら圧を圧だと感じさせない身のこなしもひとつの技術であると思うし、こういう作品の、負荷と相撲をとりながら圧をしっかりとこちらに見せてくるのもひとつの技術であるのだろうとわたしには思われる。
区切れをスラッシュで表せば「ちさきシンク/にぶく照るまで/磨けるを」になるのだけれど、この歌はあきらかに区切れとはまた別の切れかたをしていて、それは「ちさき/シンク/にぶく/照るまで/磨ける/を」になるかと思う。ちさき/シンク/にぶく/が三連続の三連符(一拍のなかに三音あるリズム)となり、そのリズムが慣性となることで、/照るまで/もまた一拍のなかにおさまるし、/磨ける/にしても一拍のなかの四音となり/を/にしてもまた一拍のなかの一音となる。「ちさきシンクにぶく照るまで磨けるを」は六七五のリズムであると同時にパンパンパンパンパンパンという六拍のリズムともなってこちらの血肉にひびいてくる。六拍のせわしない小刻みなリズムはシンク、それも小さいシンクを磨く単調でこまかい動きと連動するものとなり、「シンクを磨いてたら」には見出すことのできない動きが定型の負荷とのやりとりのなかから生まれているのだということになる。
「鼻に兆しもなく嚏せり」についても「いきなりくしゃみが出た」ではない。「いきなり」と「くしゃみ」の仲良し具合と「鼻に兆しもなく」と「嚏」の仲良し具合はまったく違っていて、「いきなり」はほとんどくしゃみの枕詞である一方、「鼻に兆しもなく」ではこちらはいったん立ち止まってことを整理しようとする。しようとしつつ目は先をゆき「嚏せり」を見てしまうから少し不意打ちのようなかたちとなってその衝撃がくる。そしてそのうえに、磨かれたシンクの光のこそばゆさがコショウのように作用してブフッと嚏につながることの面白さが乗る。
それにしてもこの歌の定型はそうとうの荒馬に見える。手ごたえ十分の荒馬であり、こんな荒馬をもったこの一首はそれだけで幸せだと思う。
鳰鳥の嘴にくくめる冬の水思ふなり腸をながらく病んで
