黒木三千代『草の譜』
歌の色ということを思う。鯉を形容しているものは「ぼとぼと重き」という重さ、また「冬の」という季節であり、鯉の色彩についてはいっさい触れていない。鯉のいる場所は自然の川や池だが、鯉がいるのを見にいく場所は庭園などにある鯉がどこからでも見られるように水位が低く保たれた人工の池である。そういう人工の池であれば、きっとさまざまな色彩や模様をまとった、見られるための鯉が泳いでいる。そうした色あざやかな鯉を思い浮かべようとするこちらの思惑を「ぼとぼと重き」が、「冬の」が、押し沈めようとする。人工の池とはいえ、しずかで濁りの深い水のありようが思い起こされて、その水につつまれている鯉の色彩もごく曖昧なものとなって一首をただよう。灰色とも茶色とも白色とも黒色とも言えない水のなかの色は冬そのものの色であるかのように歌を統べているだろう。また、「ぼとぼと」のオノマトペも鯉の重さを感じさせるのみならず、半ば溶けかかった雪が軒や木々の梢から落ちてゆくイメージを思わせるし、「見にゆかむ」の直後に「ぼとぼと」が来ることで「とぼとぼ」の幻覚を呼び込みながら、そうした歩みの質感をもこちらに告げている。
冬に入ってそれほど手入れがされていない池の泥。鯉がみずからの重さに沈み、冬の水の重さに沈んでその腹を池の底にこするとき泥が湧き上がる。泥の湧き上がりがことさらスローモーションとなって見えてくるのも上句でこしらえた重さが下句に至ってなお一首を押し沈めているからなのだと思う。そして、見にいこうとしているのは鯉を、だけれど、ほんとうに見たいのは鯉が引き起こす泥のけぶりやそのけぶりのなかに気配となってゆく鯉であって、つまり鯉の見えなさを見たいのだというのも心理の濃淡であり歌の濃淡である。くっきりとした線によって描かれる世界ではなく、その線に水分を含ませてほどいてゆくなかに表れる世界。歌のなかの言葉は往々にして描くべき線になりたがるものだと思ったりするのだけれど、そうした言葉の志向をたくみに宥めていく。曖昧なもののなかに宥められていくのは言葉であり、同時にわたしのような一読者でもある。
雪白の麩の屑流れ泡流れ鯉はおぼろに浮き上がりくる
