高橋ひろ子『ラディゲの齢』(2002年)
三角州は、川の河口付近に上流から流れてきた砂などが堆積することにより形成される。
広島平野などは大規模な三角州の例だが、一首のデルタは川と海とにかこまれたその全体が見渡せるような、小さなもののような気がする。
対岸の川原で、中学か高校の生徒たちがブラスバンドの練習をしている。
あ、また同じところで間違えた、といって笑いあうふたりは、どんな間柄なのだろう。
夫婦、だとしたら幸福な夫婦だ。もちろん恋人同士かも知れない。
が、もうすこし淡く微妙な関係のふたり、を想定して読んでみた。
何度こうして会っても、ふたりの間には越えられない何かがある。
友達同士のような関係を、深められずにいるのかも知れないし、過去や現在のしがらみを清算できずにいるのかも知れない。
まるで、曲の同じところでつっかえて先へすすまない演奏のように、ふたりは春のやわらかな陽射しのなかにいる。
そんなふうに読んだのは、ふたりがたたずんでいるのが、三角州というどこか不安定な感じのする場所だから、でもある。
流されて、でも海に出てゆくことのなかった砂の堆積。
ふたりの間には、ついにかたちのあるものは何も残らないのかも知れない。
けれどいま、ここには大切な時間が流れている。