大松 達知


たとへばジョージア・オキーフの花 真鍮のノブを回したところに待つは

中津昌子『芝の雨』(2009)

 

 固有名詞が入っている歌の評価は難しい。

 読者は、歌の良し悪しでなく、その固有名詞に目が行ってしまうことがある。そして、その固有名詞に目を奪われて、的確な歌の評価がずれてしまうことがある。

 初心者(や素人読者)の場合、とくにとういう傾向があると思う。

 一歩引いて、その名詞が歌のなかできちんと生かされているかどうかを検証しなくてはいけない。

 

 さて、このにおけるジョージア・オキーフには登場の必然性がある。それは、この時期の作者がアメリカ在住であったっことや、オキーフ作品独自の女性性や幻想的なイメージが必要だったからである。

 

 ノブを(それも真鍮の、と限定されているところにレトロでモダンな雰囲気がある)回すと、そこに何ものかが待っている、というイメージはだれにもあるだろう。

 未来があったり、過去があったり、宇宙があったり、花野があるかもしれない。

 ここでは、「ジョージア・オキーフの花」と限定したところがいい。オキーフの画面を満たす幻想的な一つの花。筆者は白い花を想像する。それが、ドアの枠全面に(直径2メートルくらいの感じで)待ち構えているというイメージ。

 ドアを開けると、そんな花が待ち構えている。少しの恐怖を大きな希望を感じる瞬間である。