小川佳世子『水が見ていた』(2007年)
花を切るのは、花を愛でるため。
庭に咲く花を切るとき、ああ、きれい、と思うものや、まだ開きかけで、切った後もしばらくもちそう、と思うものを選ぶ。
茎のことは思ってもみない。
読んだ時、アッと思った。茎を見ている。
それでいてこの歌には、人の見ないところを歌にしました、という、ある種の得意さがない。
もう一度読んでみると、〈わたし〉から「茎」の方を向いたのではない、と気づく。
「茎」からやってきたのだ。
「きみどりの」は、もちろん色なのだが、これが「匂い強くて」を新鮮にふくらませて、「茎」の“主張”の力を伝える。
それを受け取ったから「たじろぐ」。
こういう流れなのだ。「花のため切られし茎」とまず思ったにしても、「茎」の存在感が、それを単なるトリッキーな視線と感じさせない。
「少し」も、心のあり方を表して正直だ。
いま受け取ったことが心のどこかに残り、何かにつながっていくことがあろうと、とりあえずは、それだけのことだった。
そこどまりであることがよく、そのことを「少し」は正確に伝える。
省みられることのないものを思ってみるひろやかさや、そのものの存在に籠もるもの、そういう風に、より普遍化したところで感じさせるものはもちろんあるが、それだけで終わらせてしまってはもったいない一首だ。