誰がせし〈歌のわかれ〉か書き込みの多き歌集が箱で売らるる

真中朋久『雨裂』

14日の黒瀬さんの文章が心に沁みた。触発されてこの1首を。

 

古本屋の店先だろう、歌集が何冊か箱に入れられ、売られている。見覚えのあるタイトルもあったのかもしれない。手にとって開いてみると書き込みが多くなされている。どうやら歌集の元の持ち主は、一度は短歌に真剣に向き合った人物らしい。そこから作者は、「ああ誰かが、短歌に別れを告げたのだな」と上句の思いに至る。

 

短歌をやめるとき、必ずしも歌集まで捨てる(売りに出す)ことはないのではないか。ところがこの「誰」かは捨てている。そうまでして短歌への思いを断ち切らねばならなかったよほどの事情のあった人物へと、作者の思いは至っている。人生上の事情かもしれないし、短歌を続けていくことのしんどさから断念へと至ったのかもしれない。作者が、見知らぬ誰かのなした「歌のわかれ」に思いをめぐらしながら、しかし短歌にとどまり続けている立場から詠んでいることを思えば、「さびしい」などの一言では片付かない、重く熱い思いがこの歌にはある。

 

「箱で」の読みには、実は迷っている。上記では箱には何冊も歌集が入っているものとして読んだが、一つの箱に雑多な本が入れられ、その中に一冊の歌集を見つけた、と読んでもいいかもしれない。つまり、歌集の数の規模よりも、熱心な書き込みの方に作者の心が動いたことが鮮明になる読みだ。そう読んだ時、「箱で」はさらに読み甲斐がある。古本屋で「箱で」売られるといえば、棚に入る価値が認められず、雑多なものとしてひとくくりにされた値の安い本である。そこに入っているとは、はたから見れば侘しい歌集の姿だ。だが、渾身の思いで編まれたであろう歌集が、熱心な読者の手を経て、いま古本屋の店先にあるという、その歌集の道程に作者の心は立ち止まっている。「歌集」という存在そのものへの愛着が感じられる歌だ。

 

『雨裂』は2001年刊行。古本屋で歌集を見かけるたびに、私はこの歌を思い出す。

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