真夜中の鍋に林檎はほろほろと心細(うらぐは)しいのち煮詰められたる

尾崎まゆみ『明媚な闇』

左注に、「うらぐはし(心細し)心にしみて美しい」とある。

真夜中、ことことと鍋に林檎を煮る。ほろほろとやわらかくなりゆく林檎を見て、ああ林檎という美しいいのちがいまこの鍋のなかに煮詰められているよ、と感嘆する。林檎を煮たときのほのかな照りのある温かい黄色、様子を見ようと鍋のふたを開けたときにふわっと立ち上る甘い香りが、なんともいえない幸福感を与えてくれ、陶然とする。そんな気持ちが伝わってくる歌だ。

 

「うらぐはし」は、2冊の古語辞典で確認するとやはり「心にしみて美しい」「気持ちがよい。美しくすばらしい」と説明されている。そして、用例として万葉集の歌が挙がる。

 

  みもろは 人の守(も)る山 本辺(もとへ)は 馬酔木(あしび)花咲き 末辺(すゑへ)は

  椿(つばき)花咲く うらぐはし 山ぞ 泣く子守(も)る山    

  〈万葉集 巻第十三 三二三六番 作者不明〉

  【訳】神の降り立つこの山は、人の大切に見守る山。ふもとのほうには馬酔木の花が咲き、

  いただきのほうには椿の花が咲く。美しく、すばらしい山

 

訳は辞書を引きながら私が行った。ここでの「神の降り立つ山」は、現在の奈良県明日香村橘寺南東にある「ミハ山」といわれる。ほかにも、万葉集巻第十七、四〇一七番に「布勢の水海に遊覧した長歌」として大伴池主の作があり、「うらぐはし 布勢の水海に」という表現が出てくる。「布勢の水海」は現在の富山県氷見市あたりにあったという。

 

数少ないけれどこのような例をみると、「うらぐはし」はただ単に美しいのではなく、称える気持ちが込められていることが分かる。三二三六番では山に、四〇一七番では水海に付いているところをみると、人を超えて人を包むもの(平たく言ってしまえば、自然)に対して、敬いと、そこに自分が触れている喜びを込めて使われているようだ。だから、林檎に対して「うらぐはし いのち」と言ったときには、林檎のいのちを敬い、めぐりめぐって林檎と私が邂逅したことを喜び、林檎のその姿をほめ称える気持ちが入っているのだ。

 

この歌で、「うらぐはし」という言葉を初めて知った。いま、私の部屋の窓から見えている京都の西山の景色、なだらかで、満面にやわらかく日が当たっている。これまで朝昼と眺めては「きれい」と思ってきた山だけれど、この気持ちはたぶん「うらぐはし」なのだと思う。

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