春立つとけふ精神のくらがりに一尾の魚を追ひつめにけり

林和清『木に縁りて魚を求めよ』(1997年)

今年、わが家では「月の満ち欠け 新暦・旧暦カレンダー」というのを使っている。それによれば、今日は節分で新月。明日は立春。旧暦では、立春にもっとも近い新月の日が元日になるから、ちょうど今日が元日となる。今朝の京都は、例年になくうらうらと晴れ、寒さもほんの少し緩んだ。むかしの人があたらしい年を「春」と詠い、喜び、寿いだ気持ちがなんとなくわかる。

 

さて、林和清の一首は立春を詠う。「精神のくらがりに」とあるから、「一尾の魚を追ひつめにけり」は比喩だとわかるが、読んだ瞬間に、水と魚とそれを追いつめる人の手足がいきいきと思い浮かぶことが不思議だ。初句「春立つと」の力だろう。「春立つ」は俳句の季語。季語は季節を示すのみならず、詩歌における季節感の記憶につながるスイッチでもある。たとえば私は、万葉集の「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌(も)え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)を思い出したりした。林の歌にも志貴皇子の歌にも、早春ならではの、冷たい水のなかに新しく生まれて輝く生命のイメージがある。

 

一方で、「精神のくらがり」というところが独特だ。「春立つ今日、私は、私の精神の明らかならぬ隅の方に、ある一つのイデアを追いつめた。生まれたての、まだ名前のつかないイデア。まるで一尾の魚のような」。私はこのように意訳した。「イデア」としたのはちょっと苦しまぎれかもしれないが、何らかの精神の動き、理性によるひらめきが作者のなかにあったのだろう。「魚」は、追いつめたのであって、つかまえたのではない。自身さえまだ捉えきっていない精神の動き、それを確かにとらえようと、逃がすものかと精神を働かせる緊張感と躍動感。それらが立春の季節感にみごとに重ねられている。

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