肩を落し去りゆく選手を見守りぬわが精神の遠景として

島田修二『青夏』

 

競技が終わり、選手が退場する。どうやら、不本意な成績に終わった。がっくりと肩を落とし、歩み去ってゆく選手は、そのまま掻き消えるかのよう。日々のたゆまぬ鍛錬を積み上げてきたとはいえ、たった一日の本番が、選手にとってのすべてなのだ。

 

この歌だけでは何の競技かは判別できないが、野球やサッカーなどのチーム競技よりも、僕としてはあえて個人競技として読みたい。そのほうが、「肩を落し」という言葉にさらなる孤絶感が深まる。それに作者は、うなだれた背中が去りゆく光景を、「わが精神の遠景」として受け止めている。「わが」と強調しているのは、私が彼に対して、一対一の強い思い入れを抱いているからだ。これが、個人競技であって欲しい二番目の理由。

 

さて、「遠景」というのだから、やはりここは屋内ではなく、空の下であってほしい。サッカーやラグビー、野球のグラウンドでもいいが、先に言った個人競技云々と重ねて、短距離走ややり投げなどを行う陸上競技場というのが、僕のわがままな読解だ。競技場を去りゆく選手は、そのまま視界の奥の遠景へと消えゆく。この遠景こそが、作者自身の精神──。選手の姿を心の底に留めたい願いが、「遠景」という言葉を呼びだしたのだろう。

 

日々の努力がそのまま成果に結び付くわけじゃない。全てが水泡に帰し、怒りに駆られたとしても、いつかはそれが世のことわりだと受け止めねばならない。徒労を抱くことが生きること。その思いが深い作者だからこそ、敗者への秘かな呼びかけを、歌に託した。

  嘆きつつ一生は過ぎん積りたる雪の上ふたたび泡雪の降る

  街角にもの言ふ鸚鵡と睜(みつ)め合ふ寂しく充ちてわが私生活

寂しい歌だ。寂しいけれどこれらの歌はどこか、僕らの心に、生きる勇気の火を灯してもくれる。

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