酒井佑子『矩形の空』
人間の体は小さく思えるが、表面すべてを展開したなら、それなりの面積はあるだろう。私たちの多くは毎日風呂に入っては、その面積を飽きもせず磨き上げているのだ。鍋一つを磨くのにも苦労するというのに。
しかし、作者はさすがに飽きたという。首からつま先まで、石鹸の泡を立ててこすり上げてゆく時、ふと思った。「鍋磨きでもこんなに広くは擦らないのに」と。たしかに鍋は人体より小さい。でも、日々の生活の中で、鍋と人体とどっちが大きいかなんて考えることがあるだろうか。そんなことを思うのは、人間が収まるような大鍋を見たときくらい。普段はその両者の関係など何も考えず、鍋に湯を沸かし、芋を煮込み、そして風呂にも入る。
そして作者はここで、鍋と人体の共通項に思い至った。なるほど、どちらも「磨かれる存在」だ。そうしてシャボンの泡にまみれた人体はこの瞬間、鍋と同格の存在として、ぽつんとある。
客観し客観し夜半の二時に至りしづかにわれを見限りにけり
自らの肉体を客観視し、鍋やその他の無機物と同じ地位に並べて、見つめなおすこと。この不思議な価値観にいったん嵌ってしまえば、なかなか抜け出せなくなる。徹底した客観視の末に「しづかにわれを見限」ったという視線が生まれた理由には、病を得て、何カ月も病室で過ごした作者の経験とも、関わりがあるだろうか。