山岸に、昼を 地(ヂ)虫の鳴き満ちて、このしづけさに 身はつかれたり

釈迢空『海やまのあひだ』

 

夏の日だろうか、白昼、静かに佇んでいると、じいんと耳の奥を圧しくる音がある。まるで空気のように自分を取り巻く低い音だ。モノトーンの響きに包まれることで却って、白昼の静けさが身体の芯までしみ込んでくる。これは目の前の山岸にひそむ、地虫の鳴き声だろう。

単一音に耳を浸すうちに、かすかな痺れと疲れを心身に感じることは、よくある。耳をおおう低い響き、白昼の明るさ、流れゆく時間。釈迢空こと民俗学者・折口信夫は、大正10年8月23日から約20日間、長崎の壱岐島を民間伝承採集に訪ねた。掲出歌を含む一連「島山」は、その経験を元に作られたとされる。

 

地虫とは何だろう。螻蛄(ケラ)を指すこともあるが、少々季節がずれるか。土中の虫ではなくキリギリスの類かもしれないし、特定する必要はないかもしれない。迢空にとっては事実より、「山岸から鳴き声が響く」と感じることが大切だったように思うからだ。一連の題の「島山」は、山のような島、海岸からすぐ山地となる地形のこと。それは島国日本のイメージであり、日本人、そして己の居場所である「海やまのあひだ」を指す。壱岐に滞在中の迢空にとって、目の前の「山岸」からの響きは、深い感慨を呼んだのかもしれない。この「山岸」はこのまま海まで続く気もする。

 

  葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

  山の際(マ)の空ひた曇る さびしさよ。四方の木(コ)むらは 音たえにけり

  この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ

  ゆき行きて、ひそけさあまる山路かな。ひとりごゝろは もの言ひにけり

 

どの歌も、島の歌であり、山の歌でもある(「葛の花」は熊野詠の説もある)。日本人にとって島とは何か、などと考えつつ僕はアラン諸島のイニシュモア島、イニシュマン島で数日を過ごした。古代ケルト以前や初期キリスト教などの遺跡を数多く残す、石灰岩からなる島の風景はまさに「海いはのあひだ」。折口大人がここを訪ねたなら、どんな歌を詠んだだろう。

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