黒瀬 珂瀾


ガラス一枚へだてて逢えばひとはたれもゆきずりの人となりてなつかし

光栄堯夫『ゴドーそれから』

ガラスを隔てて人と会う。「逢えば」とある以上、ちょっと窓越しに見かけた、ガラスドアを挟んでばったり会った、という状況ではない。仕方なくガラス越しのままで、しばらく話すことになった。列車の窓越し、切符売り場、刑務所の面会なども考えられる。

下句の「ゆきずりの人となりてなつかし」が不思議な表現だ。ガラス一枚を隔てたことで「ゆきずりの人」になったと感じた訳だから、普段は「ゆきずりの人」ではない。つまり実際は、それなりに親しい人に会ったのだろう。切符売り場ではなさそうだ。

そして、「ゆきずりの人」だと感じたことで、却って「なつかし」と思った訳だから、本当は懐かしい人ではない。要するに、しょっちゅう会うご近所さんや仲間などに、あるところでガラス越しに話をした。普段ならその人と自分の間に距離や壁を感じはしないが、一枚のガラスがあることで、ふと気付かされた。本当は誰もがお互い、この現世ですれ違っているだけに過ぎない。

本来、「ゆきずりの人」には、懐かしさを感じないものだ。だからこの歌には、二重の逆転がある。作者は、一瞬一瞬の「ゆきずり」の関係にこそ、いつもは忘れている本来の《懐かしさ》を感じるのだろう。この人にはまた会える、と思って私たちは人と別れる。だが、だれもが「ゆきずり」なのだとしたら、また会えるという確証はどこにあるのか。すべての逢いは、一瞬一瞬の偶然。だから、再び逢えた人は、懐かしい人だ。たとえ、昨日会ったとしても。

電話にて聴きたる声をしるべとし夢の通い路辿りてぞゆく

人と逢う、人と別れる。今、目の前にいる人と、一緒にいられるということ。うつつでも、幻でも、声でも、夢でも、逢うことはすべて懐かしい。