福島弁を呑み込みて我はバスに乗る砂埃きらきらと光る朝なり

齋藤芳生『桃花水を待つ』(2010年)

福島出身の作者が、福島弁を呑み込んでバスに乗るという。都会で生活しているのか、あるいはふるさとから都会へ出かけようとするところだろうか。身にしみこんでいる方言を意識し、方言が出ないように呑み込むというのだ。「砂埃がきらきらと光る朝」という景色が美しい。日常のなんでもない時にあって、方言が、言葉が鋭く意識される瞬間があるのだ。方言については次のような歌もある。

  つらいこともかなしいことも均さるるなり無アクセント地域に住めば

通常、話し方のアクセントや抑揚は、話し手の感情をよく伝える。この歌では、作者は「無アクセント」で話す地域に住むというのだが、その方言で話してみると、つらいことやかなしいことも均される、と発見している。感情をあらわにしない話し方のため、さほどつらくなく、またかなしくないように聞こえるということだろう。方言への愛着がうかがえる。掲出歌も、方言が出ないようにはしているが、方言を恥じらうということではないだろう。ふるさととは別の場所での話し方に合わせて自分の話し方を切り替えるけれども、方言は捨てられることなく、自分のうちにしまわれている。

 

  摘花作業の始まる朝よ春なればふるさとは桃花水にふくるる
  摘花作業の進む盆地をくぐり抜け仮免許車も桃色の町
  牧歌的とは何の比喩冬の田に必ず打ち捨てらるる空き缶

「桃花水」とは、「桃花が咲く頃に春雨や氷の解け水で川が増水する」ことからいう春季の増水のことだそうだ。故郷の福島の美しさも、「打ち捨てらるる空き缶」と示される理想的なばかりではない風景も、両方含めて詠う作者である。

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