澤村 斉美


りすが駆け抜けた気がして夜明けまで三校を見つ  l(エル)一つ消す

中沢直人『極圏の光』(2009年)

「三校」とは、3回目の校正刷りのこと。「l(エル)」というから、欧文の原稿を印刷物にする過程なのだろう。校正も3回目となれば、校了のほぼ寸前だ。誤字脱字および内容的な手直しは済み、その直しがちゃんと反映されているかを確かめる段階である。そこで「l」を一つ消すという。これは「l」でいいところを「ll」と重複しているスペルミスに気がつき、lを一つ消したものと考えられる。見逃しかねないほど細かい、しかし重要な校正箇所である。校正の最終段階でそれに気がつくとは、かなり集中して校正刷りに向き合っている様子がうかがえる。

 

その気がつく感覚の比喩、「りすが駆け抜けた気がした」というところが面白い。作者はハーバード大学大学院で学んだ経歴を持ち、法学を修める。ハーバードのあるボストンの町では、公園に野生のりすがたくさんいて駆け回っていると聞く。まったくの想像だが、りすが傍らをさっと駆け抜ける実体験の感覚が、比喩に結びついたのではないだろうか。校正刷りに流れるように目を通していくなかで、何かが視界を過ぎる。ふと気をひかれてその辺りに戻って読み直すからスペルミスに気がつくのである。先にスペルミスに気がついて立ち止まるわけではないのだ。「虫が知らせる」としか言いようのない校正の感覚が、「りす」という小型の、しかし確かな影を持って素早く駆け抜ける動物によって、よく表されている。