桜花なべてさかしまに咲く池の面(も)に笑顔いくつか泣き顔となる

仙波龍英『墓地裏の花屋』(1992年)

初句は「おうかなべて」と6音で読んだ。満開の桜木が池の水面に映っている。きれいだね、と言いながら何人かで眺めているところなのだろう。ところが作者は、「さかしまに咲く」といって、地上の桜よりも水に映る桜の方に圧倒的な存在感を見いだしている。水面に映った笑顔はみずに揺れ、ゆがみ、泣き顔のようになった、という。この1首が持つ、世界を反転する力の鮮やかさに胸をうたれる。地上の桜から池の面の桜へ、笑顔から泣き顔へ。地上の側と池の面の側の境界に踏みとどまりながら、作者は池の面の側をのぞきこみ、地上の側では見えなかったものに対峙する。

 

  あはははは明るく笑ふ花のした肺ゆ空洞ひたすら拡がる
  ことごとく固有名詞は存在を否定されたり真夜ふる桜に

 

桜を扱う仙波の歌は、どれも激しい。1首目、桜の花の下にひびく「あはははは」という笑い声。そのように自分で明るく笑っておきながら、笑う自分に空虚さを感じ、その空虚さは広がるばかりだ。2首目は、真夜に降る桜花びらの激しさは、固有名詞の存在、つまり、(自分を含めて)存在を名乗るものを否定するという。桜は、作者の存在を疑い、否定し、圧倒するものとして表れ、不穏な存在感を放っている。

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