黒瀬 珂瀾


コピー機の足りない色に紫陽花はかすんでここに海があったの?

吉田竜宇「pure bomb」(京大短歌17号)

 

紫陽花の写真をカラーコピーしたら、色がかすれてプリントアウトされた。どうも、何色かインクが切れかけだったらしい。インクにはブラック、シアン(青)、マゼンダ(赤)、イエロー(黄)とあるが、下句の「海」から連想するに、シアンが切れていたのか。でも、そんな単純な読みで済ませていいものだろうか。

 

紫陽花のコピーから幻の海へ。そこには小さな視点から大きな視点への転換がある。「ここ」はコピー用紙を指す以上に、いま自分がいる世界そのものを指すんじゃないか。「海」はシアンの比喩である以上に、失われた大切な命の源のような存在を指すんじゃないか。上句と下句で主人公の立場が大きく変わることが、そんな読みを誘う。コピー機の前に立つ日常の《私》と、干上がった海にたたずむ幻の《私》。複数の《私》が同時に存在する。そうしてデジタルな複製機と、複製されない命との間の、気の遠くなるような隔たりに、私たちはさらされる。

 

  ひまわりの背後にひそむ標的を撃つときは手にひかりを添えて
  アンインストールのさなかはじまりの草原.bmp広すぎる

 

吉田の歌は、「誰でもあり、誰でもない無数の私」を主人公にしているようにも思う。だから「紫陽花」も「ひまわり」も、特定の比喩であるようで、常に揺れ動き、その意味を変化させる詩語として存在する。後者の歌、パソコンからあるプログラムを消去(アンインストール)する様子だが、作業中の画面には「草原.bmp」が映っているらしい。これ、WindowsXPの標準壁紙の画像データだが、全世界で何億人もの人間が眺め、何億通りもの思いを託された画像の奥に、デジタルな詩情は、限りない再生を見るのだろうか。

 

付記

吉田の世界は、「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」と詠んだ中澤系の世界にも似ている。だが、中澤の場合は《遍在する私》と、それでも文体ににじみ出る《社会に対する一人の私》の軋轢が、強烈な詩情を生んでいた。それに対して、実に軽やかな吉田の文体はどうだろうか。《一人の私》がいない、か細い世界なのか。それとももしかして、《一人の私》を消し去った、新時代の無限の詩情なのだろうか。