丈三尺伸びし黄菊や管(くだ)菊やビンラディン生きて逃がれよと思ふ

馬場あき子『九花』

黄菊の大輪、管菊の大輪。それらが堂々と咲き誇る様子は、実にあでやかなものだ。菊花展に出かけたのか、どこかの公園か庭先で偶然見かけたのかは分からない。作者の視線はただ、華麗に開く菊花だけに注がれている。丈三尺というから、だいたい1メートル近い高さに咲いているのだろう。細い茎に支えられて、地上から高く浮かぶように咲く菊花の大輪。その花を見ているうとき、「ビンラディン生きて逃がれよ」という思いがよぎった。

思えば菊は悲しい。人に見られるために手を加えられ続け、鮮やかな色彩や管状の花弁などを持つようになった。つまりは見世物としての花であり、自然そのままの姿から見れば、一種の畸形なのかもしれない。そうした宿命を背負い、他者の視線を集めてしまう者が、この世には時折現れる。作者にとってビン・ラーディンはそういう人物なのだろう。

一点、注意せねばならない。この歌は、ビン・ラーディンに対して「生きて逃れよ!」と呼びかける応援歌ではない。「ビンラディン生きて逃がれよ」とふと思ってしまう《自分》を冷徹に観察する歌だ。結句に添えられる「思ふ」の一言がそれを表している。「嗚呼ビンラディン生きて逃がれよ」と「ビンラディン生きて逃がれよと思ふ」では、歌意は天と地ほども違う。

今日はここまでにしたい。だが、 ビン・ラーディンという人物が、なぜあのような運命を背負い、あのような運命を世界に背負わせたのか。それを思う時、この歌が立ち現れ、花だけが中空に浮かぶ。その晩、原稿のためたまたま夜中まで起きていたら、BBCが速報を流しだした。“Justice has been done.”というオバマの声を聞いたのは、午前四時近かった。

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「丈三尺伸びし黄菊や管(くだ)菊やビンラディン生きて逃がれよと思ふ」への2件のフィードバック

  1. いつも楽しく読ませていただいています。馬場さんの、「奇形」としての彼の姿と対峙する大国の論理=権力への憎悪を、黒瀬さんの解説により、強く感じられました。NYの地において、感慨深く読ませていただきました。いつも素敵な歌を紹介してくださりありがとうございます。

  2. 非常に難しい問題ですね。イギリスはアルカイダにより悲惨な被害を受けています。この地球上にいる限り、この連鎖の運命からは誰も逃れられません。ある意味、過去の借金をツケを払っているのでしょう。すべてに是非を問う前に、そのツケを誰もが背負っているということ思はずにはいられません。この馬場さんの歌は、その時の契機となるでしょう。

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