澤村 斉美


初夏の陽に青みてうかぶ種痘あとわれをつくりし父母かなし

日高堯子『野の扉』(1988年)

「初夏の陽」に、5月の日差しを思う。陽を浴びる腕に、種痘痕がうっすらと青くのこる。種痘痕は、それがほどこされた子供時代を思わせ、下句では、父母の子として生まれた「われ」の存在を不思議に思う。

 

種痘は天然痘の予防接種である。1976年に天然痘予防接種の義務は廃止されたが、それ以前に生まれた人なら誰でも、たいていは肩の少し下(上腕の上の方)に、ぽつんと丸い痕が1つあるという(なぜか2つという人、4つという人も聞く)。

 

予防接種の結果として残った痕に過ぎないのだが、いつまでも消えないためか、特別な「しるし」のようにも感じられるのだろう。作者は、種痘あとを子供だったことの証として、父母の子供であったことの痕跡としてみている。そして、下句では「われ」をこの世に生れさせた父母を思う。「われ」がここにいることの不思議は、「われ」を成した生物としての父母に発する。。「かなし」は、「愛し」でもあり「哀し」でもあろう。自然の生命力が鮮やかに目に見えてくる初夏、存在することがいとおしく、かなしく、さびしく思える瞬間があることが伝わってくる。

 

種痘が行われなくなってからの世代にも、たとえばBCG(はんこ注射)の痕が上腕にあるだろう。いつまでも消えない予防接種の痕を見て、私はこの歌は納得がいくのである。きょう、5月5日はこどもの日。古来、端午の節句として男の子の成長を祝う日であった。いまでは大型連休の一部として過ぎてしまうことも多いが、初夏の陽ざしは変わらない。「子供」の一人として、生まれたことの不思議を思う。