横にいてこうして座っているだけで輪唱をするあまた素粒子

田中槐『ギャザー』(1998年)

短歌を作りはじめたころに『ギャザー』を読んだ。1999年から2000年代前半のころだ。2008年に小林誠、益川敏英両氏が素粒子物理学分野でノーベル物理学賞を受賞し、「素粒子」という言葉は一気に、一般教養といってもいいぐらいによく知られた言葉になった。詳しいことにまでは理解が及ばないにしても、素粒子とは「物質を構成する最小の単位」と聞けばピンとくる人も多いはずだ。

 

しかし、『ギャザー』が出た、そして私がそれを読んだころ、「素粒子」はそれ自体が実に新鮮な言葉で(科学に携わる人にはそうでもなかったかもしれないが)、1首の短歌のうちでこのように詩語となっていることが非常に眩しかった。

 

「横にいてこうして座っているだけで」は、相聞の場面だろう。好きな人の横に座っている。それだけで高揚してくる。心が敏感に働く。その比喩が「輪唱をするあまた素粒子」だ。「素粒子」のことをよく知らないまま、細かい、透明感のある粒が響き合う様子を思い描いた。『ギャザー』で「田中槐の歌集に―解説にかへて」を書いている岡井隆は、「素粒子つてなんだ、などと考へてはいけない」「『輪唱』する光の子供ぐらゐに思つて置けばいい」と書いており、私は当時も今もその読みに賛成である。

 

「素粒子」という言葉の広まりを経たいまも、やはり新鮮だ。「素粒子」を詠いこなしていることに驚く。『ギャザー』ではほかにも、「クォーク」など物理学の言葉、哲学の言葉などがしなやかに詠いこなされている。言葉への感度の高さとそれを歌にとりこむ軽やかな冒険心に充ちた歌集だ。

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