ハロー 夜。 ハロー 静かな霜柱。 ハロー カップヌードルの海老たち。

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 

夜に呼びかける。夜以外に誰もいないから。物言わぬ霜柱に呼びかける。私と似ているのは霜柱だけだから。そしてヌードルの乾燥した海老たちに呼びかける。今夜、私を温めてくれるのは、海老たちだけだから。「私」は誰だろう。冬の夜、誰もいない部屋に帰り、カップヌードルだけで夕食を済ませる。そういう暮らしを送る、孤独な青年の像が浮かぶ。

 

でも、なぜ「ハロー」の後ろが一字開きで、いちいち句点がつくのだろう。筆者が思うにこの一字開けは、「ハロー」と呼びかけた後の、返事のない寂しさを表しているんじゃないか。そして句点は、「夜」「静かな霜柱」「カップヌードルの海老たち」まで作中主体が声に出して呼びかけていること、つまり、歌全体が孤独な主体の独白だと示しているんじゃないか。

 

この歌を収めた歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』は、架空の少女「まみ」を主人公に据えた構成をとる。するとこの歌、無邪気な少女が満面の笑顔で呼びかけているようにも読める。この海老たちは同歌集の一首「水準器。あの中に入れられる水はすごいね、水の運命として」の「水」と同様に、少女を驚かせたのかもしれない。

 

最後に。これはまま見過ごされているが、掲出歌は最初、岩波書店で行われた勉強会「乱詩の会」に提出された(岡井隆「乱詩の会 短歌編」、岩波書店『図書』、2001.9)。題は「釈教歌」であり、作者は宗教性を込めようとしたはずだ。そう思うとこの主体は、茫漠たる夜と同じ大きさを持つ者、例えば、神だったかもしれない。乾燥海老はこの世の生き物や人類の比喩かもしれない。すると「ハロー」の軽々しさは、怪しいインチキ神父のような神様を思わせもする。この辺に作者の宗教観とおそらくアメリカ観が見えてくる気がしないでもないが──。

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