黒瀬 珂瀾


こないだは祠があったはずなのにないやと座りこむ青葉闇

五島諭「ゴーヤを植えた」(『短歌往来』09年8月)

 

緑が覆い茂った林道。空の光は葉に遮られ、地面までは届かない。とはいえ真闇ではなく、どこかに明るさを留める、そんな日陰。青葉闇という言葉は、緑の生命力が輝く初夏の、光の影のあわいを呼び起こす。そこは涼しげでありながら少し汗ばむような、それでいて優しい緑に満ちた空間だ。その青葉闇の中を、しばらく歩いてきたのだろう。ここに来るのは初めてではない。ちょっと前に一度来た。たしかこのあたりに小さな祠があったはずだ。だが、いくら探しても見つからない。やれやれ、と歩き疲れて、木の根元にどっかと腰を下ろす。

 

「こないだは」という初句や、全体の軽やかなリズム感には、ある種の格調から解放された、ただ一人の空間を楽しむ作者の姿勢が見える。誰が聞いているわけでもないのに、独り言をつぶやきたくなる、不思議な喜びの感覚。それを呼び覚ますきっかけが、ついに見つからない小さな祠だったということが、読者の心を突く。この「祠」という一言が、静かで自然に囲まれた周囲の環境を読者に想像させる。おそらく林道の脇に、小さな地蔵尊か何かを納めた祠があったのだろう。 でも見つからない。祠が急に消えることはないだろうから、場所を間違えているのか、何かの記憶違いで元々なかったのか。そういう情報は歌からはばっさりと切り捨て、単に「ないや」と息をついた、今の感覚だけを青葉闇の中に灯してみせる。

 

この「ないやと座りこむ」というくだけた表現が、爽やかな徒労感を思わせる。歩き疲れて足の裏が少し痛くなった、けれども、もう歩けない、といったほどでもない。他に誰もおらず、一人だけだから、「ないや」というそっけない呟きになる。そうして座り込み、頭上を見あげる時に訪れる「歌のきらめき」は、まさに青葉闇がかすかに零す光のように、僕には美しく見える。