澤村 斉美


然(さ)ういへば今年はぶだう食はなんだくだものを食ふひまはなかつた

奥村晃作『鴇色の足』(1988年)

ぶどうの旬は、主に8月から9月にかけて。暑い日々をひたすらに忍従し、残暑をも乗り越えてふっと息をついた時に、「そういえば今年はぶどうを食べなかった」と振り返る。「食はなんだ」と、昔語りのようなひょうひょうとした口調でいうが、 下句「くだものを食ふひまはなかつた」には、「それどころではなかった」というニュアンスがある。下句を受けて、上句は哀切きわまりなくひびく。ぶどうのようなくだものは、甘味と清涼感をもたらし、人の体を癒やす。そのような癒やしをほんのひととき得るひまもなく、必死に何事かに向かった夏だったのだ。この歌の前には

  課せられた仕事に向ひ励むこと〈愛〉とはつまり然(さ)ういふことか

という1首がある。背負わされたものに耐え、必死に過ごした夏が過ぎた後の「ぶだう食はなんだ」なのである。シニカルな空虚感を味わうべきだ。

 

掲出歌は、同じぶどうを扱いながらまったく逆の味わいの詩歌をいくつか思い出させる。

  葡萄食ふ一語一語の如くにて  中村草田男(葡萄は秋の季語)

  童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり  春日井建

  口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも  葛原妙子

いずれも、葡萄のみずみずしさや、滋味のつまった球形の実がもつ詩性を深めている。奥村のぶどうの歌は、これらの歌を背景にしてなお味わい深い。詩を欲しながら、詩に心を傾けるひまなく、地べたを這うように生活に徹したひと夏の人間像が強く立ち上がる。