うぬぼれていいよ わたしが踵までやわらかいのはあなたのためと

佐藤真由美『恋する歌音』

 

恋する女は綺麗になる、とは言うが、恋する男はかっこよくなる、とは言わない。そのあたり、男性上位の感受性が見え隠れして、気になるのは僕だけだろうか。しかし掲出歌は、この紋切り型の感情を逆手にとって、恋心の駆け引きの複雑さを表して見せる。

 

この歌の面白みはやはり「踵」という具体性だろう。恋人だけに見せる身体の部位ならば、扇情的に描ける秘所がいくつかはある。だが佐藤は、色気からは遠い「踵」を選んだ。すぐ固くなる踵を柔らかく保つには、日々の手入れが欠かせない。しかし、踵を柔らかくしたところで、男がそれに気づくものか。やはり踵を柔らかくさせるのは、女性の自尊心ではないのか。ここには単なる性愛や男性への媚を越えた、女性自身の自己決定性、自負心を、恋愛関係の中にそっと注ぎ込む心があるように感じられてならない。

 

この歌、ストレートに読みとけそうで、ちょっと複雑だ。確かに呼びかけの形を取ってはいるが、「うぬぼれていいよ」という揶揄そのものの言い回しは、直接のメッセージではないだろう。つまりここには、自分の体に磨きをかけるのは愛する男のためだ、と私は思っている、と貴方は思ってよい、と私が思っている、という、三重の構造がある。この一首は作中主体の男性観を表した、内面的な歌だろう。無意識に男尊的な思考に陥りがちな男性という生き物を苦笑しつつも、その苦笑を表には出さない。

 

佐藤自身は掲出歌に先立つエッセイで、「ぷるぷる肌とはまた別の魅力が、たったひとりの愛する人のために角質をとり、時間をかけて手入れされた女の肌にはあると信じたい」と書くが、その思いをどこかはみ出す心の機微が、柔らかな踵に宿っていないだろうか。塚本邦雄の「當方は二十五、銃器ブローカー、祕書求む。――桃色の踵の」ともどこかで響きあう気がする。

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