灯台に風吹き雲は時追えりあこがれきしはこの海ならず

寺山修司『空には本』

 

青年は、つねに憧れるもの。何かに憧れ、それを求めさまよい、ついに手に入れたと思った瞬間、それは見当違いであったことに気づく。むしろ、憧れ続けること自体を求めるかのようだ。そういう心を持った青年は、時に短歌の森に足を踏み入れることになる。

 

「灯台に風吹き雲は時追えり」、ここにあるのは、小さな人間である己を超えた、大きな時の流れに真向かおうとする視線だ。目の前の灯台は動かず、その上の雲は流れてゆく。いうなれば灯台は、動きえざる人類のいる場所を示す座標であり、風に吹かれて灯台から離れてゆく雲は、人類を置き去りにしてゆく時間と運命の謂、と読みとってみても、間違いとは言い切れまい。

 

こうして、海の前に立ち尽くす青年。しかし彼にとって、この海は求めてきた海ではない。つまり、永遠も運命もここにはない、と気付いた。自らの足でたどり着ける海が、永遠の場所であろうはずもない。そんな分かり切ったことに気付かぬほど、海を見る前の青年の心は焦燥に満ちていた。ただ、己の手の届かない場所で、雲だけが海の向こうへと流れてゆく。

 

  夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

 

この蟻一匹にも、青年の自我が投影されているのだろう。懸命に蝶を引きずって行こうとも、私の影を出ない蟻。同じように、己自身もまた、自らの影のなかでもがき苦しむ肉体に過ぎない。昨日は軽やかに舞っていた夏蝶も、今日は蟻に引きずられる。どこまで走っても、影を出ることはあたわず、憧れの海にたどり着くこともできない。しかしその悲しみにこそ、青年が青年であり、短歌が短歌である理由が秘められているのかもしれない。

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