与謝野寛『相聞』(1910年)
ニコライ堂は東京都千代田区神田駿河台にある正教会の教会堂だ。1891年の竣工当時は八角形のドーム屋根を備えていたという。ここで寛(鉄幹)が歌っているのは、この最初のニコライ堂だろう。1923年の関東大震災でドーム屋根は破損し、現在見る姿は震災後に修復されたものだという。
新間進一の注釈(日本近代文学大系『近代短歌集』)によれば、鉄幹は1909年にニコライ堂近辺の東紅梅町に転居し、みずから戯れて「聴鐘閣」と号したこともあるらしい。煉瓦と石造り、銅板葺きの円屋根、ビザンティン様式の建築に魅了されたのか、『相聞(あいぎこえ)』にはニコライ堂の歌がほかにも出てくる。
岩崎の木立を出でてNIKORAIの壁にただよふORCHESTRA(オケストラ)かな
その男NIKORAI堂のうしろてに暫く住みて行方知らずも
小石川原町の火事をかしくもNIKORAI寺のしら壁に照る
2首目など、特に面白い。「その男」とは誰か。知り合いなどではなく、ニコライ堂の裏手でよく見かけた男、というほどだろうか。謎を含んでいるが、当時の東京の町の、得体の知れない者が流れてきていつの間にか去っていく、そんな空気が感じられる。鉄幹もその空気の中に身をおき、町の鼓動を聞いていたことだろう。
掲出歌で面白いのは、曇天を頂くNIKORAIの円屋根の「黙」す姿に、「われ」も一体化して「黙」していることである。どっしりとした石造りの建築と同化することから想像される鉄幹の「黙」は、押し黙るというのにふさわしく、腹の底に何事かをどっしりと抱えながらの渾身のだんまりであるように感じられる。次のような歌もある。
おのが身は石の蓋する墓なるか歌ふことなく黙(もだ)す日きたりぬ