朝おきて泡たてながら歯をみがくまだ人間のつもりで俺は

嵯峨直樹『神の翼』

 

朝、起きて、一日が始まる。そのことの膨大な集積が人生であり、逆を言えば、人生を生きるということは、ある「一つの朝」を特別な今日だけの朝ではなく、他日と変わらぬ交換可能な朝として迎えることかもしれない。上句では、そんな無限の連鎖に慣れさせられてしまった主体の在り方が透けて見える気がする。それは、自分が自分であることに、なんら疑いを持たない朝を過ごすことでもあるだろう。

 

だがこの朝、作者はふと自分を観察したのだ。この俺は、まだ人間でいるつもりで歯を磨いている、と。ここには二人の俺がいる。人間のつもりで歯を磨く俺と、その俺を「もう俺は人間じゃない」と思いつつ見つめる俺と。生きることに順応していってしまう俺を見つめ、その順応を本音では拒否しているため、人間であることから転落してしまう俺。一種のアルターエゴかもしれない。それでいて何とも言えない切なさがこの歌にはある。「まだ」の一言が、作者が抱える名状できない悔しさ、生きること自体への違和感のようなものを代弁しているように思う。

 

  世界消灯、世界消灯、アナウンス聞こえくる朝制服を着る

  からっぽになれたらもっと愛されるたとえばきれいに笑う〈妹〉

 

ヘルマン・ヘッセの「世界夫人」ならぬ、「世界消灯」。世界が消灯され、私は勤めに出るのだろうか。だとしたら、この「朝」はいったい誰にとっての朝か。年下アイドルのイメージで語られる偶像としての「妹」のように、空っぽな存在になりたい。しかしなれない私は、ついには空虚な愛さえもえられない。これらの虚無感はやるせなく、救いなく、この上なく透明に光りかがやく。

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