真夜中の鉄棒に手は見えざれど誰(た)が握力か残りてゐたり

栗木京子『しらまゆみ』(2010年)

真夜中の公園か、学校か。鉄棒には誰もいない。だが、鉄棒には誰かが握ったその握力が残っているのだという。鉄棒に触れて、誰かが握っていた後であろう温もりを感じた、ということではない。「見えざれど」と言っているので、鉄棒を見てなんとなく、握力の気配が残っている気がした、と読むのがいいだろう。

 

実際に、握力の気配を感じとったところから出発している歌かもしれないが、そうではなく、言葉の力による1首だと思う。鉄棒がそこにある→鉄棒の佇まいの不思議に心をひかれる→目には見えないけれど、人の握力の気配がそこには残っているのかもしれない、と思う。このような順で発想し、最後の「かもしれない」あたりの発想を、「残りてゐたり」と、あたかも実際にそうであるのを見たかのように言い切ることで歌になる。読者としては、ああ確かにそうだ、と思う。鉄棒は公園や校庭の隅にあるだけのただの物体だが、その佇まいに感じる空気感を言いあてられた気がするのだ。

 

鉄棒の歌、として読んでも十分面白い。が、ここまで読んできて、果たして鉄棒のみにどとまる歌か、とも思うのである。なにか比喩的にも読める。鉄棒には、繰り返し人がやってきては握り、去ってゆく。握った跡を残すのではなく、ただ握ったという、形にならない行為の気配が、じっと定点にあって動かぬ鉄棒に積み重ねられてゆく。それは、人が、繰り返しこの世に現れては「生きる」という形のない行為をして去っていくこととどこか似ていないか。鉄棒というごく身近な具体的な事物を借りて比喩とし、人の為すことの本質を端的に語っているように感じた1首である。

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