わたくしの絶対とするかなしみも素甕に満たす水のごときか

築地正子『花綵列島』

 

「かなしみ」は、必ず人の心を占める。それはどうあがこうが、振りほどいても振りほどいても常に人を覆いつくす。むしろ、人の心の一つの柱として「かなしみ」はあるのかもしれない。作者にとって「かなしみ」は、「よろこび」や「怒り」などよりもはっきりとした、確証のある絶対的な感情なのだろう。いうなれば作者は、「かなしみ」をこころの糧として生きる人なのかもしれない。

 

しかし、その「かなしみ」でさえ、「素甕に満たす水」のようなものだと気付いた。透明な水は形を持たず、本来は流れゆくもの。素甕に汲みいれられたからこそ、水が定まって存在する。つまり、水がそこにあるということは、絶対ではなく、ただかりそめに器の形と色に従っているにすぎない。私が頼みとする「かなしみ」も、私の内面を離れ、大いなる世界から見れば、かりそめにそこにある感情に過ぎないことに、思い至った。絶対の感情は存在しない。しかし作者はおそらく、それでも、この「かなしみ」を絶対の感情として生きてゆくのだろう。

 

「素甕」の「素」は飾りのない様を示す。だからこれは、素焼きの素朴な甕を指すのだろう。日用のためだけに使われる、名もなき職人が焼き上げた甕。そういった美を柳宗悦は「民芸」として称揚したが、この歌にもどこか、素朴な無名の民衆の側に己を置く心があるように思う。水を満たす素甕とはすなわち、かなしみを湛える作者自身の姿の比喩に他ならないのだから。そういえば作者には素甕の水の歌が他にもあった。こちらも清廉な響きの中に、素朴な日々を生きる人の姿が映し出されている。

 

  水のみが見たりし月もありぬべし朝素甕の水くつがへす    『菜切川』

 

 

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