澤村 斉美


緑蔭に〈不生不滅(ふーしやうふーめつ)〉蝉しぐれ妻と浴びをり〈不垢不浄(ふーくうふーじやう)〉

桑原正紀『天意』(2010年)

鬱蒼と緑の葉を繁らす夏の木蔭で、妻とともに蝉しぐれの中にいる。その蝉しぐれが「不生不滅」「不垢不浄」と聞こえた、という。「ふーしょうふーめつ」「ふーくうふーじょう」と般若心経を唱える調子が思い浮かぶのだが、まず、蝉しぐれの音と律を表すオノマトペとして、この言葉には説得力がある。蝉たちはおのおの天衣無縫に鳴いているが、あたり一帯を包む蝉しぐれとなったとき、読経のような、斉唱のような響きとリズムが人の耳には聞こえる。また、般若心経の「不生不滅」「不垢不浄」の意味も、不意に作者の心にすとんと落ちた、ということだろう。すべてのものは「生ずることも滅することもない」「清浄であることも不浄であることもない」。単純に直訳すればそれだけの言葉の深遠が、蝉しぐれとともに身体に沁みこんできた、と作者には思えたのではないだろうか。そばには妻がおり、その美しいひとときが、妻とともに得た体験であることを物語る。

 

歌集の「あとがき」から、妻は脳動脈瘤破裂で倒れ、作者は妻の介護をし続けてこの歌集の時点で5年ほどになることがわかる。妻と生きる日々を丹念に歌いとめる1冊だが、妻を通して世界の新たな姿に気がつき、その新鮮な思いが歌として結実していることに感銘を受ける。家族の介護をするなど、他者とともに生きるとはこういうことなのか、と、新たな視座を与えられた気がした。「こういうこと」とはつまり、世界を別の目で見てゆくこと。それまで自分が見ていた世界が濯がれることである。掲出歌を含む同じ章から次の3首を。

 

  炎昼の地を這ふ蟻を踏まぬやう潰さぬやうに車椅子押す

  木蔭にて飲ます冷たき缶コーヒー妻は声あげ「おいしい」と言ふ

  われに積み妻に積まざる時間といふもの何ならむ季(とき)めぐりゆく

 

1首目。私の数少ない体験から言えば、車椅子を押すことはものすごく難しい。車椅子に座る相手に気をつかうあまりに緊張してしまうと、それは取っ手を通して相手にすぐに伝わり、不安にさせてしまう。下手をすると一歩も動けなくなる。その立場からすると、この1首は輝かしいほどに幸福な一瞬であるように思える。つまり、車椅子に座る人と押す人の呼吸が合い、押す人はさらに、炎昼の熱い地面を這う蟻に気がつき、蟻を踏まないよう、潰さないようになめらかに車椅子を扱う余裕がある。歌には書かれていないが、「蟻がいるよ」という会話が二人の間にあるようにも思われる。2首目、特別なことなどなにもない、どこにでもある自動販売機で買える「缶コーヒー」だ。暑い中を来て、木蔭にたどりつき、妻に飲ませる。妻が、「おいしい」と声をあげた途端に、缶コーヒーが、その冷たさがこれほど輝くとは、どうしたことだろう。私は読者として驚いているのだが、作者にも同様の驚きがあったことだろう。3首目。一方で作者は、妻には新しい記憶が残らないという事実を受けとめる。作者に積み重なっていく時間、妻には積み重なっていかない時間。まったく異なる位相にいながらも、二人が一緒に生きているというまぎれもない事実を、「季めぐりゆく」とおおらかに肯定する1首である。