黒瀬 珂瀾


この口は夏の蝉よりくりかえすどんなにあなたにみにくいだろう

今橋愛『O脚の膝』

 

例年に比べて遅かったようですが、昨日の澤村さんの記事で、日本で蝉が鳴き出したことに気付きました。コートの人も多い、肌寒きロンドンから、日本の熱い夏に思いを馳せます。延々と繰り返される蝉の鳴き声。よくもあれだけ鳴き続けることが出来ると感心する。その響きは耳を覆い、聞いているだけで蒸し暑さがこみあげてくる。それを、恋人に向かって愚痴や怒りを繰り返す自分の「口」と重ねている点が、この一首の肝だろう。

 

「この口は夏の蝉よりくりかえす」という上句は実にリズミカルで、断言の鋭さが強調される。それがそのまま強い自己嫌悪の暗示に繋がる。「口」が「くりかえす」という表現は、自分の心とは裏腹に、気付けば口から呪詛の言葉が漏れているという、どうしようもない私の在り方を示している。「より」という比較の助詞を当て嵌めてみせた点にも、鋭敏なセンスを思う。

 

そうした上句とは対照的に、下句には作者の内面の思いがストレートに述べられる。まるで心の中のどろどろした液体をべたっと塗りつけたようで、上句のリズム性との落差が、深淵の悲しみを覗かせてくるようだ。とはいえ「どんなに」「あなたに」「みに」と「に」音を重ねてくる点など、音楽性への配慮も忘れられていない。

 

  としとってぼくがおほねになったとき
  しゃらしゃらいわせる
  ひとは いる か な

 

まがまがしい死と童謡(わざうた)のイメージの中に、不変の愛を希求する心。詩的な修辞が排除され、フラットな文体となった「棒立ちの歌」(穂村弘)の代表的歌人と称されることもある今橋だが、僕はそうは単純に思わない。従来の短歌的修辞とは違った形での、精緻な修辞技法に基づいた定型詩の追求が、ここにはあると思う。己の醜さを抉りだそうとする人の呟きは、蝉の大音声に負けないメロディーとして秘かに響き出す。