つるし置く塩鱒ありて暑きひる黄のしづくまれに滴るあはれ

佐藤佐太郎『立房』

 

その昔、択捉、樺太産の塩鱒は、函館を経由して日本中で消費され、さらには台湾、中国へも届けられたそうだ(この場合の鱒はカラフトマス)。塩鮭の代用品、と見られるふしもあるようだが、鮭よりも鱒の方が上品な味がする、という御仁も多いだろう。僕個人は、富山の鱒寿司が世界で一番美味い弁当だと信じているので、鱒贔屓だ(この鱒はサクラマス)。

 

さて、掲出歌の塩鱒が、どの鱒なのか、海の鱒か淡水の鱒か、それは分からないが、当時は大切な蛋白源だっただろう。佐太郎の『立房』は昭和22年刊、終戦前後の生活が厳しい時代の歌を納めている。塩鱒を吊るす風景も現在の都市圏では見られない(というか僕も見たことがない)。これは自宅の軒で吊るしているのか、魚屋か商店の店先で吊るしているのか、それとも海や川などの鱒の産地での風景なのか。

 

作者はこの塩鱒をじっと見つめている。その長い時間の流れが、「まれに」の一言に込められている。だからこそ一読した後に、「暑きひる」の暑さがむわっと後から追いかけて来る。暑い陽光の下、塩鱒と向き合いながら立ち尽くす作者。この音もないような炎暑の一風景が、荘厳に感じられる。少しずつにじみ出た鱒の脂が、たまに滴となって落ちるのだろう。それを「黄のしづく」と、色彩を以て言い切るところに、佐太郎の眼力がある。この「黄のしづく」はまるで、暑さに耐えかねて絞り出された一滴のよう。それを見ている作者もまた、暑さに汗を絞られているのだろう。だからこそ結句に「あはれ」という語が置かれるのだろうし、そこには同じく汗をかく者として、塩鱒へのそこはかとない共感があるかもしれない。

 

こうして佐太郎に切り取られると、生活の風景がこの上なく峻厳な一瞬に見えてくる。生きるということのさりげなさと尊さが等価となって混じり合う。その詠風の延長線上に、

  ことごとくしづかになりし山河は彼(か)の飛行機の上より見えん

  風はかく清くも吹くかものなべて虚しき跡にわれは立てれば

といった、終戦直後の思いを詠んだ歌たちもあるのではないか、と思ったりもするのだ。

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