きつとある後半生のいつの日かサヨナラゲームのやうなひと日が

影山一男『桜雲』(2011年)

私は「サヨナラゲーム」を生で体験したことはないのだが、野球のテレビ中継などを見ていると、文句なしの終止符であるように思える。サヨナラで勝った方はチームも観客も歓喜に沸き、負けた方は望みが潰えてぼうぜんと立ち尽くす。これ以上はもう試合が動かない、誰もが認める完璧な終わりが訪れ、どんな立場にあるものも長い戦いの果てにカタルシスを得る。そんなサヨナラゲームのような或る日が、自分の後半生にもあるだろう、と掲出歌はいう。「きつとある」という詠いだしは、期待だろうか、おそれだろうか。その中立であって、頭を垂れて、期待と恐れを鎮めている心、として読んだ。

 

「サヨナラゲームのやうなひと日」とは何だろう。如何ようにも読めるところがこの歌の魅力だ。私は、人生についての理解なのかな、と思った。後半生に至って、人生について、啓示を得たかのごとくある理解を得る。その瞬間は本人にしかわからない。歓声と絶望が入りまじる、その祝祭的な瞬間を、勝ちも負けもなく眺める日がくる、と予感しているの歌なのではないか。

 

面白いのは、「サヨナラゲームのやうなひと日」において、作者がどんな立場にあるのか、どんな立場にいたいのかということは不問にされている点だ。実は、この歌の前には、次の2首がある。

 

  秋空はサヨナラヒット放ちたるバッターのごと雲払ひたり

  秋空はサヨナラヒット打たれたるピッチャーのごと崩れて暮れぬ

 

秋空を喩えるのに、ヒットを打ってサヨナラ勝ちする方のバッターと、打たれて負けるピッチャーが用いられている。雲を払う気持ちの良い秋空と、崩れて(雲が動いたり、光が変化する様子だろう)日暮れを迎える秋空。それぞれに「秋空」のありのままのある一面を喩えていて美しい。

 

これらを踏まえるとさらに、掲出歌が詠っているのはサヨナラゲームにおける立場ではなく、サヨナラゲームという景色そのものなのだ、ということがわかる。

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