月足らずで生まれたらしい弟を補うようにつきのひかりは

                           笹井宏之『てんとろり』(2011年)

 ちょっと謎めいている歌である。月足らずでうまれたらしい弟(未熟児として弟がうまれたということだろう)とはどういうイメージだろうか。そのような弟を「補うように」降る月のひかりとは何だろう。平易な言葉で語られながら、歌の解釈の細部がぶれるようで、どこかあてどなさが残る歌ともいえる。

 私の解釈は次の通りである。上の句は「補うように」を導き出す序(あるいはそれに近いもの)ではないだろうか。ある夜、煌々と降る月のひかりがあった。美しい月のひかりはこの夜に不可欠なものであり、何かを「補うような」やさしさを持つひかりである。「補うような」という動詞の選択は著者のオリジナルなものだろう。なにものかを癒すような(=補う、欠けているものを満たす、フォローするような)月のひかりのイメージとして、私は捉える。そういう「補う」という言葉を導き出すのが上の句ということにならないだろうか。月足らずで生まれた弟とはこの世の中で一番弱い。まだ人間になりきっていないという事で、異形のものでもある。そのようなあやうい存在である弟は「補われる」ばかりである。上の句は「補う」という言葉が使われる折に連想されるイメージということであり、序(あるいはそれに近いもの)になっていると思う。「生まれたらしい」の「らしい」は伝聞による推量であるが、この伝聞も上の句が実態というよりもある種の「イメージ」であるということを示していよう。

 上の句と「補う」にはやや落差も感じられるので、序と呼ぶにはやや変則的ではあろう。しかしながら、「イメージの連鎖」は笹井の歌にとってひとつの要素になっていると思う。

(後日追記)

 以上の読みをいったん投稿しましたが、読み直すと解釈に誤りがあるようにも思えて来ました。月足らずで生まれてきた(未熟児として生まれて来た)弟は、それゆえにどこか完全ではない、欠けた部分がある。その欠けた部分を補うように月の光が降り注いでいるということではないか。そのほう「補うように」という言葉の意味の通りが良くなるような気がします。序云々は凝り過ぎた読みです。

  最初の私の読みは「補うようにつきのひかりは」を歌の実質ととって、上の句を従の部分と解釈した読みであり、訂正後の読みは「月足らずでうまれたらしい弟を補う」を歌の実質ととって、下の句を従の部分と考えたものではないかと思います。ひょっとするといずれか確定できないのかもしれません。歌の部分と部分が主従や因果によらず、イメージとして並列につながって行くところに、この歌の(あるいは笹井のいくつかの歌の)特徴があるとも言えます。

 

 

 『てんとろり』は2009年に26歳の若さで亡くなった著者の遺歌集である。死後に友人たちの手で纏められている。

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