棚木 恒寿


人間を休みてこもりゐる一日見て見ぬふりの庭の山茶花

                                 志垣澄幸『東籬』(2011年)

 忙しい日常の続く中での休日、家に籠って充電をしているのだろう。「人間を休みて」籠るという把握は面白い。人間を休むくらいのことをしなければ、一日をまるごと籠ることができない日々があったのではないか。単に休んで鋭気を養うのではなく、全てを遮断してひきこもりたいという意志も感じられる。そして、上の句の体言止めの後にはやや断絶があろうか。なぜ、作中主体は庭の山茶花を見て見ぬふりをするのだろう。

山茶花の花にこころ動かされるようでは、本当の意味で籠ることにならないということではないかと筆者は読む。たとえ美しいものを愛でるのであれ、外部からの刺激に反応しているようでは、籠るという目的を完全に達成することは出来ない。「見て見ぬふり」をして籠ることが最重要なのである。「人間を休む」「見て見ぬふり」は洒落た把握だったり、口語的な軽みのある表現のように見えながら、存外に切実である。主体の身体の芯にどうしても残る疲れのようなものまでが感じられる。

『東籬』は志垣の第十一歌集。七〇代を過ぎるまで勤めた私立高校を退職する前後の日々が歌われているようだ。

身のうちをさらけ出すがに潮干けりひろがる泥砂に陽が濡れてゐる

教室の窓より身体のり出して黒板消しを少女は叩く

同じ時代(とき)を働きてきし人らみな老いて団地の家内(いへぬち)にゐる

迂闊だつた 人生つてまことにみじかくてたつぷり目薬さしてゐる朝

一首目、潮の引いた後の干潟には、まるで「身のうちをさらけ出す」ように海の生き物やその死体やゴミやらがあらわになっているのであろう。「身のうちをさらけ出す」は干潟の比喩でありながら、いつしか干潟と主体の「身のうち」が一体化されてゆくようである。目の前に広がる光景は、干潟でありつつ主体の内部そのものでもある。ゆえに、下の句の「泥砂に陽が濡れている」が妙になまなまとするのである。「陽が」濡れるという表現も面白い。三首目、「同じ時代(とき)を働きてきし」という把握は鋭い。「生きてきし」ではなく「働いてきし」という所に同世代への連帯感も感じられ、退職後の日々の感慨がじんわりと広がる。

一軒の農家まるごと水洗ひしてゐるように雨しげく降る

船底を天に向けつつ照りやまぬ漁船に寄れば海が匂へる

病むやうな淡き日ざしに照る草を牛はぬれたる舌だして食む

白ペンキ剥げゆくやうに公園の桜ふぶけりその下をゆく

ほそぼそと生きながらへて伏し待ちの月夜こきこき桃の缶切る

地元宮崎を歌った作も印象的だ。「船底を天に向けつつ」や「病むような淡き日ざし」のなかの牛の「ぬれたる舌」にはリアリティーの錘があり、景がふくらむ。「こきこき桃の缶切る」も「こきこき」のオノマトペに生活の褻の部分の実感が伝わるようである。