連続通り魔出没せしとふ路地の辺にうち捨てられたる扉(ドア)いち枚

                                                            柚木圭也『心音(ノイズ)』(2008年)

 

 都会の路地は時に怖い。通り魔が連続して出現したという路地がある。路地の隅には扉が一枚打ち捨てられている。内容としてはシンプルな歌だと思うが、結句の「扉(ドア)いち枚」がどことなく不気味で、存在の重さがある。

 結句でなぜいきなり扉が出て来るのか。扉は何の意味をもつだろう。連続通り魔とはこの世のものとは思えぬ存在であり、路地の辺に捨てられている扉は異界への入り口のように感じられる……と解釈するのはちょっと野暮な読みのように思う。路地の隅とはいえ、大きな扉が捨てられているのは異常な光景だ。異常な光景を前にしばし作中主体は立ち止まっているのではないだろうか。捨てられている大きなドアの、圧倒的な存在感。「扉いち枚」とあるが、普通は捨てられている扉を数えることはない。扉を目にした時の動揺のようなものが伝わるようだ。

 おそらくこの歌のポイントは下の句の扉の存在のリアリティーである。扉に出会ったときの「あっ」という感じが重要なのだろう。そこから、そういえばここは連続通り魔が出たといわれた路地だなというふうに、上の句が導き出されたように思われるのである。事実を歌ったかどうかという点ではリアリズムかどうかは分からないが、ものの存在感や手触りがあるという意味で、非常にリアリティーを感じる歌である。ものを前にしての主体の驚きに読者は共振する。

 

大鋏昼をよこたふ 真はがねの雨中(あまなか)つんと鼻腔ににほふ

 

 この歌も「大鋏」というものの存在が一首のなかで大きな役割を果たしているように思う。ある日の昼下がり、大きな鋏が目の前に置かれている。「よこたふ」という動詞の選択は面白く、やや擬人化されている。「横たえられている」ではなくおのずから「横たう」のであり、のびのびとした感じさえある。そして、ふと真はがねから鉄の匂いがしてくる。雨の中での鉄の匂いは印象的である。雨の中だから鉄は冷えているだろうし、それに触れたときの感触も想像され、嗅覚だけではなく触覚や気温・湿度までが感じられて、そこに読者の五感も重なるのである。

 

聖誕祭過(よ)ぎりてのちは密かなる五十嵐肛門科のたたずまひ

 

柘榴食むたび口もとに皺現れてあらはるるたび柘榴消えゆく

 

春の水跨がむとするに股ぐらの真つ青なるが映りぬたのし

 

 一首目はなんともユーモアのある歌であるが、「密かなる」「たたずまひ」という言葉での景の切り取りに巧みさがある。肛門科は日陰の存在であろうが、かならずどこかに看板は出ているものであり、ときに慈しむべきたたずまいをしているのであろう。ユーモアの中に、手触りや感じ方の細かさがあり歌を豊かなものにしている。

 

泣きながら風が出てゆくわれといふ出来損なひの管つん抜けて

 

人とモノのあはひにて吾(あ)はただよひぬ湿りあふるる午後の家並(やなみ)を

 

胸板てふ板あるべきのシャツのなか汗に尖りてしんと乳首が

 

「出来損ないの管」「人とモノのあはひにて」「湿りあふるる」「しんと乳首が」のような身体感覚も、しんみりと読者に伝わってくる。

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