気が付いた時には世界の中にゐて海見むと海に来るのことのあり

香川ヒサ『The Blue』(2012)

 

『The Blue』の帯には、「英国から始まった近代化。その所縁の地を歩き、歴史を辿り、現代の日本と自らの立ち位置を探る。歴史の流れとただ一度の生の交わるところで見えて来るものは――」とある。この帯文に、特に間違ったところはない。確かに本書は、イギリス各地を訪れて作られたと思しき作品によって構成されている。しかし、「そのつもり」で読み始めると、序盤から何となく違和感を覚える。

違和感の正体は何か。というか、私が無意識に想定していた「そのつもり」とは一体何なのか。

 

旅の歌集といって思い出すのは、たとえば、岡井隆の名歌集『伊太利亜』である。この歌集については明後日書きたいと思っているのだが、『伊太利亜』では、旅に出る前の思い、各地を旅する際の感慨が、「私」(=作者?)の体感に即して綴られていく。また、各地の地名が効果的に盛り込まれ、地名を通して読者が風景を共有できるようなところがある。旅をテーマにした一連を読むとき、読者は多かれ少なかれ、「旅人の姿」と「地名による手がかり」を求めてしまうものなのではないだろうか。

一方、『The Blue』は、各地を旅する「私」(=作者?)の影が極めて薄い。また、一冊丸ごとイギリスをテーマにしている割には固有名詞の数が少なく、「海」「街」「城」といった一般名詞が多い印象を受ける。冒頭からして、

 

朝空を黄色い霧の覆ひつついよよ濃くなる昼から午後へ

倫敦で漱石の見た濃き霧の世界に広がる百年かけて

 

と、いきなり五里霧中状態(?)からスタートし、その後も、語り手がどういう経緯でイギリスにいるのか、どのくらいの時間をかけて滞在しているのか、といった情報は曖昧なままなのである。

多少強引な比喩かもしれないが、この感触は、CS辺りでお昼に流れている旅番組に似ていると思う。有名人がナビゲーターとなり旅先で様々なリアクションを取って見せ、見どころをアピールし、途中にクイズを挟んでくるような番組ではなく、画面に旅人の姿が映り込むことがなく、ひたすら風景を映し、たまに音声か文字による必要最小限のアナウンスが流れるような番組。どちらが良い、という話では全然ないのだが、この歌集の持ち味は、上空を飛ぶ鳥、あるいは一種の〈概念〉のような存在として風景を見下ろし、時として百年前と現在とを自在に行き来する、その浮遊感にあるのではないかと思う。

 

冒頭に挙げた一首は、『The Blue』を象徴するような歌。一首だけ取り出した場合、いつどこで詠まれたのか、さっぱりわからないのだが、世界の中にぽーんと投げ込まれたような感覚が、抽象化された海の青さとよく合っていて、妙に得心がいく。

 

歌集最後の2首も引いておく。

 

教会の影は芝生を移りつつこの公園から出ることはない

往く人の影は芝生を移りつつこの世界から出ることはない

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