吉野 裕之


きららかについばむ鳥の去りしあと長くかかりて水はしづまる

大西民子『無数の耳』(1966年)

 

噴水の元栓をとめて人去れば森より早くこころかげりぬ

遠近の正しき絵にて動き得ぬ人間も牛の群れも苦しき

立体を取り戻しゆく夜の心くるめくやうなワルツを弾きて

中傷の文字読みしあと硝子戸に映れるわれはゆらゆらと起(た)つ

乾し草をサイロに貯めて待つほどの充足もなく冬は来向ふ

どこまでも火の見の影が伸びてゆきそのまま暮れてしまふ街なり

雪原(せきはら)に軍馬の碑見しかなしみのよみがへりつつ夜汽車にゐたり

 

『無数の耳』は、著者42歳のときに上梓された、大西民子の3冊目の歌集である。人としての成熟。短歌という詩型との親しさ。そのどちらにも深く納得する、そんな作品たち。

たとえば3首目。「立体を取り戻しゆく夜の心」。「立体/平面」といった概念のありようとは別のところで、つまり「立体」という語が、ほかの概念とは関わりなく、ただそれだけで立っている。それは、自身の立ち方のことだろう。自身だけで立つという意志。

 

殻とぢて竦(すく)める如き日のわれを不意に来し母に見せてしまひぬ 『まぼろしの椅子』

酔へば乱れて帰る夫夜々にみとりたる来し方も今の独りも寂し

妹と母の待ちゐむ父の忌に菜の花あまた買ひて帰らむ

 

歩みつつ振り返る視野昏(く)れてゐて海藻のやうに枯れ木がゆらぐ 『不文の掟』

駅を出でて枯れ野の口(くち)に懸かる橋バスを渡してより渡りゆく

人のさす黒の蝙蝠傘(かうもり)大きくて匿まはれゆく錯覚あまし

 

『まぼろしの椅子』(1956年)と『不文の掟』(1960年)から3首ずつ引いた。大西は、作品の中心に自己を置く。その自己は、あることがらに定められたそれであり、過去でありながら正しく現在である。こうした自己が描く確かな構図は、大西作品の独自性を保証する。しかし、傷は癒えることなく、痛みを放ち続ける。

 

きららかについばむ鳥の去りしあと長くかかりて水はしづまる

 

「きららかに」という美しい一語ではじまる一首は、一瞬のうちに読者を捉えてしまう。「きららかについばむ鳥」の残像は、ゆっくりゆっくりもとの風景に戻っていく。「長くかかりて」。この7音が一首を大西のものにしている。このフレーズは水の位置から紡がれており、もし景と距離をもった視点で捉えようとすれば、時間という概念そのものが作品上に現れるのではないかと思う。水は、大西なのだ。大西の希求が、一首の力である。