都築 直子


濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ

斎藤史『魚歌』(1940年)

 

作者は、1909年2月14日に生まれ、2002年の昨日4月26日に93歳で死去した。インターネット上のウィキペディア「斎藤史」の項は、今日4月27日現在、史の没した月を5月としているが誤りである。

 

斎藤史は、私にとって特別な歌人だ。というのは、2002年の3月末ひょんなことから短歌に開眼した私が(3月26日の本欄参照)、はじめて出会った「死亡記事が大きく新聞に載る歌人」なのである。むろん、それ以前にも有名歌人の死亡記事は見ていたはずだ。しかし、目を素通りしていた。短歌に無関心な一般読者の感覚はこういうものだろう。1990年没の前川佐美雄、1991年没の土屋文明など、記事はあっただろうが何の記憶もない。あるいは無意識下で、短歌俳句という分野に無知な自分に、日本語のネイティブスピーカーとして後ろめたさを感じていたかもしれない。

 

いずれにせよ、新聞に写真入りで大きく載った斎藤史の死亡記事は、私にとって初めて「ああ歌人ね、この人ね」と思えるものだった。短歌開眼から一月後、すでに講談社学術文庫『現代の短歌』(高野公彦編)を入手しており、アンソロジー作品は未読ながら目次の歌人名には目を通していたのだ。斎藤史? ええ、知ってるわ。誰に自慢できるものでもないのに、そのときの「得意感」はよく覚えている。日本語ユーザーとして一段グレードアップしたわたし。

 

切りぬいた死亡記事をいま抽斗の奥から出してきて見れば、見出しは「戦後代表する女性歌人 斎藤史さん死去」とある。代表歌として上に掲げた一首が引かれ、最新歌集からの作として「夢に逢ふ人等のために醸したり昭和苦酒・平成苦酒」が引かれている。短歌素人の目には、どちらも読み方がわからない。「濁流だ」の一首は、てっきり土砂災害の歌だと思った。

 

<濁流だ/濁流だと叫び/流れゆく/末は泥土か/夜明けか知らぬ>と、5・9・5・7・7音に切って、一首三十三音。歌集の中では、「昭和十一年」の章の、「濁流」二十二首に置かれる。いわずと知れた名歌中の名歌だ。二・二六事件に材を取った歌でありつつ、別の事件や出来事の歌として読めるところが名歌たる所以である。個から普遍へ。たとえば今ならば、2010年チュニジアのジャスミン革命に端を発する「アラブの春」を詠んだ歌としても享受できるだろう。

 

当時の朝日新聞は、4月26日夕刊の死亡記事に続き、翌27日に天声人語が全文を斎藤史追悼に費やした。力の入った対応だ。看板コラムは次の歌を紹介する。

疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりやぁああなた
あなたまあおかしな一生でしたねと会はば言ひたし父といふ男
我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生れしことに黙す     *「生」に「あ」のルビ
白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り        *「眼」に「め」のルビ
待つ人もあらねば この世自が老もつばらかに眺めつつまゐらう
友等の刑死われの老死の間埋めてあはれ幾春の花散りにけり    *「間」に「あひ」のルビ

800字に満たない短文の中に、歌を六首も引いている。新聞一面の記事というより、ほとんど短歌総合誌の作品鑑賞に近い。史に対するこの特別扱いはどこから来るのかといえば、歌人としての評価に加え、二・二六事件をめぐる社会的話題性があるからだろう。文学的評価だけでは、これほどの扱いにならない。斎藤史以後、写真付きで大きな死亡記事が載った歌人には、2005年没の塚本邦雄、2010年没の河野裕子がいるが、取り上げ方は史に対するものとは異なる。

 

斎藤史の死亡記事を素通りせずに読めた2002年の私は、もうこれから歌人死亡記事のどんなに長いのが出ても大丈夫、と思ったのだが、幸か不幸かそういう記事は現れなかった。古典的ないいまわしながら、この人ほどの文学性と社会性を併せもった歌人は、彼女が最後だろう。