吉野 裕之


歳月に意味を問うなら問うことの問いの形がとり残さるる

糸川雅子『タワナアンナ』(2002年)

 

限りなくやさしくなれる朝のため幾千の夜を砂漠に眠る

綿毛布肩までひきよせ薄皮を剥ぎたるように眠りに入らな

銭湯に出かける時刻もおおかたは定まり東京の人のようなり

泣くためにたっぷりと言葉をたたえたる青磁の壺のかたちに眠る

ぽってりと肉付きている長男の掌思いやさしくなれる

湯の縁に肩から上をのせているそんな気ままな春のいちにち

ひとに少し遅れて曲がる街角の並木の下にポストが見ゆる

 

安定した韻律の一冊。糸川雅子の歌集『タワナアンナ』はそんな印象の一冊である。安定した韻律とは、安定した精神のありようのこと。むろんそれは、精神がつねに安定しているということではない。ある種の理の力によって制御されている、あるいは、理の力がことばに端正なかたちを与えているということ。

「生活の上では大きな出来事がありましたが、それ以前から、遙かなものにこころ惹かれていく部分が、自分のなかにあることを感じておりました」と「あとがき」にある。遙かなものに惹かれるこころは、逆に身近なものを確かに捉えていく。

 

歳月に意味を問うなら問うことの問いの形がとり残さるる

 

私たちは、時間と空間のなかで生きている。誰もそれを逃れることはできない。生とは時間と空間に身体を置くこと。私たちは時間と空間によって生を与えられている。

私たちは、「いま・ここ」を生きている。「いま・ここ」は常にやって来て、常に去っていく。歳月。それは「いま・ここ」の集積。私たちは、ときに歳月を思う。歳月は、ある大きさをもっている。その大きさにしみじみとしながら、あるいは驚きながら、歳月を思う。そして、問う。

「歳月に意味を問うなら」。私たちは誰も、「歳月に意味を問う」。だから、初句・二句はわかりやすい。「問うことの問いの形がとり残さるる」。しかし、三句から結句はなかなか難しい。

「問うことの問いの形」は、「問うことの形」とも「問いの形」とも違う。「問うことの」とは、問うことにおける、ということだろうか。では、問うことにおける「問いの形」とは何か。なんとなくわかるような気はするが、はたしてそうだろうかとも思ってしまう。あるいは、「歳月に意味を問う」ことに意味がないと語っているのだろうか。やはり、難しい。

ああ、そうか。もしかしたら、ことがらの輪郭を確定させないためにこうした表現がなされているのかもしれない。確定しない輪郭は、ときどきに表情を変える。いわば読者の様態を映す鏡。

「問うことの問いの形がとり残さるる」。魅力的な韻律だ。それによって、作品としてのバランスが図られているのだろう。確定しない輪郭と魅力的な韻律。それが心地いい。だから読者は、繰り返しこの一首に向き合うことになる。