水に浮くこの全身がわたくしのすべてであれば重たし水は

後藤由紀恵『ねむい春』(2013年)

 

プールで泳いでいる場面だろう。室内か屋外かはわからない。あるいは、湖か海で泳いでいるのかもしれない。どう読んでもかまわない。
水を蹴り、からだをまっすぐのばして、水に浮く。
この全身がわたくしのすべてだ。
ふいに思う。思い至る。わたくしがわたくしは、などとふだん思ったり考えたりしているが、「わたくし」の精神や心は、いま水に浮いているこの体の中にあるのであって、ほかのどこにもない、存在しない。天啓のような思いが、全身を貫く。わたくしを包んでいる水が、たとえようもなく重い。

 

という事情を、歌は伝える。さて、このページのタイトルは「一首鑑賞」だが、歌というのは読んだら鑑賞しなくてはいけないのだろうか。何かを思ったり、考えたりしなくてはいけないのか。そんなことはない。「わかるなあ」「わからないなあ」とか、「いいなあ」「よくないなあ」などと感じればいい。もしも本欄執筆者のミッションが一首の歌を探してきて差し出すこと、だとするなら、歌の下に続く文章はいわば蛇足のようなものだ。

 

というわけで、蛇足を申せば、一首は「全身」という漢字語が効いている。「水に浮くこのうつしみ」などといったら、歌が台無しだ。「わたくしのすべて」というフレーズもいい。読み手ははっとして、そうだ自分のこの体だけが私のすべてなのだ、とふだんは思わないことを改めて確認する。自分を守ってくれる人、自分が守るべき人など、まわりにはいろいろな人がいるけれど、私のすべては私自身が面倒をみていかなければならない。

結句、「水は重たし」を倒置して「重たし水は」とする。初句からのなだらかなつながりに、最後で変化がつく。「水に」と「水は」が、歌の頭と尻尾でひびきあう。

 

自分の全身が自分のすべてだという認識は、どんなときでも、たとえば散歩をしているときでも、電車の吊革を握っているときでも閃きうるだろう。だが、水着ひとつの裸に近い状態でいるときに閃くというのは、説得力がある。水は、羊水の水につながるだろう。

 

「身一つ」ということばがある。慣用句なので、ふだん何の気なしに使っている。だが、考えてみると、一体のからだだけが自分のすべてであり、いまこうしてこの文章を書いている私は、私の体のなかにしか存在せず、いまこうしてこの文章を読んでいるあなたも、あなたの体のなかにしか存在しないというのは、ずいぶん怖いことではないだろうか。

 

ものを読者に考えさせるのは、ものを捉える作者の力である。