吉野 裕之


追ひ抜かれ後退しゆくランナーをとらへをりしがやがて突き放す

佐藤通雅『天心』(1999年)

 

雨脚の去りたれば地の匂ひ湧く病むもの置きて帰るうつしみ

枕辺の水を替へむと廊行くに身のいづくゆか鈴の音こぼる

サーカスの残しゆきたる水たまり幼らは来てこもごもに飛ぶ

一匹となりし金魚を捨てかねて持ちくれば星のまたたきをせり

パリ発の娘の声の届きくる手を伸ばせばつかまへられさうなその声

彩雲や祭少女のくちびるのいろして西にたなびけるあり

雪の上にいたりて雪は姿消す天なるものはためらはぬなり

 

やさしい。そのことを思う。『天心』から引いた。

20代後半に上梓された佐藤通雅の最初の歌集『薄明の谷』(1971年)には、たとえば、「反戦映画見し夕暮は敷石の一つ一つを踏みて帰りき」「ダリア畑でダリア焼き来し弟とすれちがうとき火の匂うなり」「放尿をさびしくしている草いきれ世界は今神話のように遠い」といった作品が収められていた。

守り続けること。それはけっして容易くはない。しかし、守り続けることによってのみ得られる豊かさがある。短歌という詩型は、私たちにそれを教えてくれる。

 

追ひ抜かれ後退しゆくランナーをとらへをりしがやがて突き放す

 

マラソンか駅伝のテレビ中継を詠んだものだろう。よく見る光景だ。

理屈をいえば、追い抜かれても走り続けているのだから、「後退」ではなく「前進」しているのだが、追い抜かれたランナーはすこしずつ「後退」していくように見える。勢いが衰えていくという意味の後退ではなく、まさしく後退していくように見えるのである。

カメラは追い抜いたランナーの速度で、光景を捉えていく。追い抜かれても、追い抜いたランナーと同じ速度を維持できればいい。しかしそうでなければ、「前進」しているのもかかわらず、カメラに「後退」していく姿を捉えられてしまう。すこしずつすこしずつ後退していくランナー。しかし、あるときふっと、急速に後退してしまう。「やがて突き放す」。巧みな表現だ。機械の目が捉える冷酷な光景、といったら大袈裟かもしれないが。いや、私たちの目はもっと冷酷だ。どれくらいの人が、突き放されたランナーを見ているだろう。

そう、こうした厳しい一首を提示できる佐藤の目は、やさしい。