すべり落つるその瞬間に白き皿は思ひ出だせり鳥なりしこと

福井和子『花虻』(2011年)

 

すべり落ちるときになって初めて、鳥だったことを思い出すのは、それまで空中に飛び出したことがなかったからだ。白い皿は、この世に現れてからずっと、いつも何かの上に置かれていた。テーブルの上、棚板の上、持ち主の膝の上。その身はいつも何かに支えらえていた。置かれた場所でじっとしているだけが、皿の人生だった。

 

しかしいま、皿は気づく。そうだ自分は鳥だったのだと、身を支えるものが何一つない空中に飛びだし、束縛から解かれた自由な空間で、ありありと思いだす。全身をつらぬく歓喜。鳥だったんだ! 飛べるんだ! だが、目の前に迫る床との距離はあまりに短い。羽ばたきを始める時間はない。床に激突し、こなごなに割れて皿は死ぬ。

 

というのが、一つの読み。もう一つの読みは、鳥であることを思いだした皿が、床に落ちる手前でひらりと身をかわしてどこかへ飛び去る、というものだ。鳥だったことを思いだした以上、いくら床が眼前に迫ろうが飛べないということがあろうか。

 

皿は割れる。
皿は割れず、飛び去る。
どちの読みが正しいか。

 

どちらも正しいのである。作者の意図はどちらか一方にあるのかもしれないが、差し出された歌のことばからは、どちらの読みも成立する。正しい正しくないではなく、一読してぱっとどちらを思うか、という読み手の側の問題だ。これはたとえば、寺山修司<海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり>を、両手を広げるのは「海の大きさを少女に示すため」と一読して思う人と、「海へ遣るまいとして通せんぼをするため」と思う人がいることと変わらない。

 

私は、「割れる」派だ。その後で「割れない」派の読みを知り、虚をつかれた。なるほどそのようにも読める。墜落を回避し、急上昇して飛びさる皿。爽快だ。現実世界でありえないことが起きるのが、歌の世界の醍醐味である。しかし、と思う。私には少しばかりさわやかすぎる、というかハッピーエンドすぎる。どちらの読みを取るかは、読み手それぞれの好みによるわけだが、私にとってこの歌の魅力は、人生最大の歓喜が訪れるのは人生の最後の一秒だった、という部分にある。一秒後には死ぬ、でも歓喜は訪れた。人生の一つの終わり方としてすばらしいんじゃないだろうか、と思うのである。

 

<すべり落つる/その瞬間に/白き皿は/思ひ出だせり/鳥なりしこと>と6・7・6・7・7音に切って、一首三十三音。込み入った内容を、三十三音で的確に伝える技量は並のものではない。この一首をはじめ、福井和子の歌はどれも、確かな措辞と豊かなイマジネーションで、読み手をここではないどこかへ連れていってくれる。

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