小高 賢『眼中のひと』(2007年)
枯れきった鈴懸の葉を踏みてゆく先鋒のごと会議室まで
朝いかりゆうべに憤(いか)りし身は万の鴉を食いしごとく重たし
ブラインドあげれば街ははつなつの一日焉(お)えたる空が皺めく
小高賢の歌集『液状化』(2004年)は、たとえばこうした作品とともに、「編集者生活を終えた(二〇〇三年二月)」を詞書とした一首「職棄つるすなわち職に棄てられる切刃のごとき風はせめ来ぬ」を収めている。小高はこの時期に、35年におよぶ編集者生活にみずから終止符を打った。
『眼中のひと』は『液状化』に続く一冊。一生活者としての作品が多く収められており、全体的に柔らかな印象の一冊である。
紅梅は二分の微笑みわが知らぬ長崎家なる墓に礼する
耳ふたつ小鳥にあずけしばらくは冬のひなたの影がともだち
わが眉に長い白毛あると告げうれしそうなり床屋のあるじ
顔すべて使い丼めしにむく若きとなりを見つめてしまう
父として夜の喪服をぬぐようにゆかざり鬱の子とむきあえば
つもごりの雪降る夜を子のように妻は案じる水仙の身を
息子宛ての勧誘電話つかの間を息子になりてうなづきており
妻や子に向かう視線、風景に向かう視線が、老いの自覚あるいは老いることへの意識と結びつきながら、一首を生みだしているのだと思う。ときおり見えるユーモアも魅力となっている。
わが家の貯えなどを妻に問う夜の川辺の歩行のおわり
男は、いや夫というべきか、意外と家の貯えについて知らない。それだけではない。食器棚のどこに何があるか、冷蔵庫のどこに何があるか、夏物の衣類は、冬物の衣類はどこにあるか、などなど。そう、家のことを何も知らない。むろん、知っている夫もいるだろう。もしかしたら、少なくないのかもしれない。しかし、知らない夫が確かにいる。知らないからこそ、妻との会話がやさしくなるのだ。
「わが家の貯え」。それは、これからの人生にとって、とても大切なもの。これまで、それを妻に任せてきた夫。「妻に問う」。「聞く」ではない。意味に大きな違いはないが、「問う」にはある距離感がある。それは「歩行」ということばとも響きあっている。
この距離感が、二人の信頼関係を示しているのだろう。夫婦は他者だと思う。けっして一体であるわけではない。他者だからこそ距離があり、その距離が自然あること。それが大切なのだろう。
静かな静かな一首だと思う。