吉野 裕之


たましひが躰のなかで泪する しづかにひととき泣かせてやりぬ

日高堯子『玉虫草子』(1998年)

 

ああ、確かにそうだ。こんなときがある。自分なのだけれど、自分ではないような、そんな存在が自分のなかにあって、「躰のなかで泪する」といったときがある。それが「たましひ」なのだ。

名前は、あるいは名づけることは、とても危険だ。なぜなら、ものやことは、名前をもった瞬間に制度に取り込まれてしまうから。制度は管理の方法。しかし、ときに名前をもつことによって救われる。そう、自分なのだけれど、自分ではないような、そんななんとも言い難い存在が、「たましひ」という名前をもったものだとわかれば、なんだか安心できる。「しづかにひととき泣かせてやりぬ」。ひととき泣かせてやることもできるのだ。

「躰」「泪」「泣」。漢字はたった3文字しかない。柔らかな柔らかな一首。

 

からすうりのレースの花がしゆつとひらき こんなにしづかな地上の時間

人間を直立した蛇だといふ なにかうれしく空みてわらふ

黒百合の根ひとつ食べて毛先までつめたかりける夜なり 逢はむ

地上いま雨があがりぬ 樹の根くぐる地下水脈に虹たちをらむ

空豆のくぼみのやうな姉として疲労(つかれ)のふかき弟おもふ

五月には山ぢゆうに藤の花が咲く ああ天(あま)のはらひえて咲くとふ

 

日高堯子はとても大きい。いや、正確には、広がっている、ということだと思う。さまざまところに繋がっていく、そんな身体が日高なのだ。「地上の時間」「空みてわらふ」。あることがらに向き合いながら、思いがふっと広がっていく。広がりが、下のほうへ、小さなほうへ向かうこともある。「地下水脈に虹たちをらむ」「空豆のくぼみのやうな」。

だから日高は、「たましひ」を実感できるのだ。