影山一男『空夜(くうや)』(2001年)
30代のころ、40歳になるのが怖かった。年々、いや日々近づいていくのだが、考えないように考えないようにしていたように思う。40歳になると、ああ、なってしまったと思いながら、しかし、曖昧な中年ということばは遠ざけておきたかった。そんなある日、ふたつ年下のK氏の、自らを中年と呼ぶ作品を読んでしまい、あんな瑞々しい青春歌をつくっていた君が、と大きなショックを受けた。それは他人事ではなく、私が中年であることを実感した瞬間でもあった。
勤め人(びと)運ばれ去りし地下鉄の長き轟きホームに残る
けたぐりをかけられしごとつんのめる生を肯ふ冬のなかばを
闇の村歩めるごとく酔ひふかし泪目に見るくらき東京
めざめたる朝(あした)の耳よ冷たくて聞きをり妻が卵割る音
夏の夜のポルノグラフィー永遠の肉体もなく思想もあらず
影山一男の歌集『空夜(くうや)』には、紛れもなく中年の男性の日常がある。それが力となっている一冊である。
けふすでに過去となりたり西船橋行きの終電 吊革揺るる
にくたいは確かに老いに入りゆくと秋から冬を喘ぎつつ越す
婚姻の二十年目は寝坊して花束ひとつ買ひきて暮るる
妻も吾も故郷を離れ暮らし来て団地の木々も壮年となる
子ら育ち欅も古りし十五年無名者なれどわれの歳月
自身や身近な人びとに向けられた視線は、静かにことばを生みだしていく。けっして派手ではないけれど、派手ではないからこそ深く届いてくる作品たち。
中年というのは素敵だ。そう思う。そして、そう思っていた。だから、40歳になるのが怖かったのだし、中年ということばは遠ざけておきたかったのだと思う。そう、私は中年になる自信がなかったのだ。
一昔前のやうなる水村(すいそん)をバスより見をり旅にあらねど
私たちは、風景を生きている。風景は時間を抱えている。時間は私たちに語りかけてくる。しかし、すぐに返事をする必要はない。感謝の気持ちだけを返し、じっくりとじっくりと、自らを耕せばいい。
「一昔前のやうなる」とは、どんな「水村」なのだろう。「水村」。美しいことばだ。「5・3-4・5」のやわらかなリズムが巧みだ。「旅にあらねど」。旅ではないので、日常のできごとなのだろう。しかし、あえて「旅にあらねど」というのは、どこか非日常のできごとでもあるということだろう。日常と非日常のあわいの風景。「バスより見をり」。風景に直接触れないのは、敬意なのかもしれない。
「秋の日の絹のやうなる光浴びゆりの木はたつ黄落のまへ」「柿の木の若葉の陰に去年ありし柿の実ほどの空間はあり」といった作品もある。風景に向き合う、影山の謙虚さを思う。