地下街をキックボードで滑りゆくみずがね色の猫やなぎたち

佐伯裕子『ノスタルジア』(2007年)

 

弟を早春と呼びあたらしい窓開けてやる兄の静けさ

桃の日に薬売り来る静けさの木箱のなかの黒き熊の胃

雪が斜めにマンションを切る春の夜は門に立ちたり息子とふたり

一段目に春が蔵(しま)われ五段目はふかぶかと冬 祖母の箪笥は

微笑するカーネル・サンダース永久に在るように立つ白い背広よ

 

佐伯裕子の歌集『ノスタルジア』から、たとえばこうした作品を引いてみる。やわらかな韻律が魅力的な作品たち。いずれも佳作だ。しかし、と思う。何かわからなさが残るのだ。

「弟を早春と呼びあたらしい窓開けてやる兄の静けさ」。ああ、と思い、「兄の静けさ」を思う。兄弟の、なんともいえない関係の、思いのありようをうまく捉えた一首だと思う。しかし、「静けさ」がわからないのだ。「静けさ」の意味や捉えている内容はわかる。わからないのは、この一語を置いた意志のありよう。あるいは、必然性ということかもしれない。同様に、2首目では「桃の日」、3首目では「息子とふたり」といったあたりに、わからなさが残ってしまう。

むろん、欠点として指摘しているわけではない。わからなさが残るから惹かれるのだろうと思うのだが、なんだかもやもやした感じがくやしいのだ。

 

地下街をキックボードで滑りゆくみずがね色の猫やなぎたち

 

猫やなぎは、河川の土手などでよく見かける落葉性の樹木。3月、4月頃に独特のかわいらしい花穂を見せてくれる、春を告げる植物だ。花穂を猫の尻尾に見立て、猫やなぎの名前が付いたという。

「みずがね色の猫やなぎたち」。一首は、この下句で成立している。「みずがね色の」という把握がいい。みずがねとは水銀。みずがねという音と水銀の実態との間にある何かが、このフレーズの魅力だろう。むろん「猫やなぎ」という把握もいい。おそらく、少年なのだろう。やわらかな猫やなぎの花穂のような少年たち。

地下街に樹木は相応しくない。だからこそ人工的なイメージをまとい、しかしいきいきと輝く少年たち。都市の美しい断面だと思う。

しかし、何かわからなさが残る。どの語に、どの句に、というわけでなく、先に引いた4首目や5首目と同様、一首全体にわからなさが残るのだ。この都市の美しい断面に、佐伯は何を見ているのだろう。

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