吉野 裕之


吊り橋と吊り橋をゆく人々の影うつしゐる秋の川底

久我田鶴子『ものがたりせよ』(1997年)

 

まぼろしの家庭といふに戻りゆく男のあくびを見逃してをり

東京駅地下ホーム午後十時過ぎ線路上なるねずみの背中

わづかなる小枝寄せしを巣となして卵(らん)二つある秋のベランダ

この世にはたのしい音といふがあるツヨシが笑ふつくつく法師

泥の田のおろかしさこそなつかしくあなたはだんだんほらねむくなる

排泄の回数のみを記録されもうだれでもない病室のひと

 

私たちは、世界から何を感受しているのだろう。あるいは、何を感受したいと思っているのだろう。たとえば久我田鶴子のこうした作品を読みながら、ふと、そんなことを思う。

「ものがたりせよ」。美しいフレーズだ。「ものがたりせよ、風よ、草よ、木よ、鳥よ、あらゆるものよ。耳をすまして、あらゆるものがそれぞれの声で語るのを聴きたい」。一冊のあとがきに、久我はこう記す。美しいフレーズは、静かに、しかし確かに届いてくる。

 

吊り橋と吊り橋をゆく人々の影うつしゐる秋の川底

 

秋の川底は、吊り橋の影と吊り橋をゆく人々の影を映している。たったそれだけのことだ。しかしいうまでもなく、一首が抱えているのは「たったそれだけのこと」ではない。

「吊り橋と吊り橋をゆく人々」。読者は、当然「吊り橋と吊り橋をゆく人々」をイメージする。「~の影うつしゐる」。そして、影が詠まれていることに気づく。「秋の川底」。影を映しているのは、川底。秋の澄んだ水をイメージする。水の透明感、水に反射するひかり、底に映る影。春とも夏とも冬とも違う、秋という季節。

私たちは、世界から何を感受しているのだろう。あるいは、何を感受したいと思っているのだろう。こうした一首を制作する作者。それを鑑賞する読者。「何を」に答えるのは難しい。しかし、こうした問いをめぐって、両者が制作と鑑賞を交換していく過程が短歌なのだろう。